棚卸し

思ったことをメモする習慣ができた。ある程度溜まったので放出したい。1週間分くらい?

 

・日常の狂気について

 

品川駅を歩いていると電光掲示板に伊東行きの電車の時刻が表示されていた。

「この後の予定全部ほっぽって静岡行くだけの金も時間もあるな」

と気づいてしまったが最後、それにばかり気を取られてしまった。もしかして、行こうと思えばほとんど日本全国どこにでも思いつきで今日中に行ける?となると途端に世界が怖くなる。だから考えないようにしている。Suicaオートチャージにしないのも同じような理由だ。周りの人も多分同じ観念を持っているのではないか、自分が自由であることに気づかないようにしている。自発的に自分が不自由であることを選ばせないと回らない社会があって、衝動を抱えながら生きているんじゃないか。

 

・花束みたいな恋をした、もう一度観たいんだけど精神的な体力が足りない

 

脚本として坂元裕二のやり方に興味があるから観ておきたい。1度目は映画館で観たんだけどそんとき眠くてよう考えずに観たし隣が泣く人だったから集中できなかったし。前と今では思想も知識も観る目的も全然違うから体験がどう変わるかにも興味がある。感性、日ごとに変容するものな気がする。「私だけが抱いている感情じゃないか」というのを多くの人に抱かせようと思ったら固有名詞や限定的文脈を衝突しない形で作中にバラつかせることが重要なんだと思うが、そういう散逸的な世界観を2時間持たせるやり方ってどんなんなんだろう。映画と小説の違いとか。視点がね、遠いよね、視点がね。

 

・煩悩を消したい

 

全ての欲求を消し去って、禅僧のような現世から超越した雰囲気を出したい。千日回峰行を2回達成した坊さんの動画観たことあるけど、なんかもう纏っているオーラが''他所''の感じだった。全くもって仏道には明るくないから多分正しい感想じゃないんだろうけど、普通に死にかけただけでは成しえないようなオーラ。自信なのか、超常体験をしたのか。

日頃生きていて自分の煩悩のせいで行動が規定される瞬間が多すぎることに辟易している。衣服も自己表現じゃない。他人に受容される''自己''というのを、拙い客観視を前提になんとか作り上げているだけだ。「他人に愛される前に他人をまず愛しなさいよ」ということをフロムがおおむね言っていた。これに対する感想としては「世の中って結構他人の存在を想定しないといけないんだな」ってことだった。けど他人と関わる上ではどうしても気に入られたいという欲求がでてくる。そして行動が自己本位的なものから離れて、だんだんと社会にアジャストされていく感覚がある。それが何となく嫌だと思う。独りが似合う人が好きで、わたしはそれに少しでも近づきたいと思う。しかしこれも、私と同じように独りの人間を好む人間から好まれたいという煩悩だ。

 

・綺麗に読書モチベが湧いた

4月に1日1冊のペースでミステリーを読んで食傷気味になってからは、ちまちまと興味あるところだけをかじるみたいな読み方をしていた。井上真偽『聖女の毒杯』おもしろい。森博嗣のときも思ったけど、ミステリーの楽しみ方(少なくとも私にとって)は、作中人物(探偵役)と一緒になって謎を考えるとか矛盾を探すとかじゃなく、異様なシチュエーションに放り込まれたキャラクターの言動を楽しむというキャラ物めいた感じの楽しみ方になっている。これはキャラクター消費ってやつなのか?ただ、井上真偽に関してはとりあえず3作読んだが、キャラクターの魅力を実はそこまで感じていない。戯画化されすぎたキャラクターたち(チャイニーズマフィアで頭脳明晰で腹黒い女、オッドアイ青髪超頭脳明晰でお金に弱い探偵、天才小学生探偵など)が持ってまわった口調で喧々諤々の議論をしまくるだけ。イマイチ乗れないとこがある。なんで読んでるのか、日本語が好きだからです。日常で出会わない語彙や漢文からの引用が痺れる。活字の良さはそこにある。他人(小説家)の語彙で展開される世界は普段の自分のそれとは全くもって異なるから、平たく言うと異文化交流の気持ちなのかもしれない。

 

・ストレス溜まったら本買って散財&積読するっていうのをやっていたらいつの間にかKindleに250冊あった。

 

確実に読み終わらない。フロムの『愛するということ』を扱ういい感じの読書会&議論が発生したので嬉しい。脚本の「家族」ってお題にも合うのでコスパがいい。小説じゃない本の読書、私にとっては、まず不足を認識してそれを補うために読む、という過程を踏むことでより良く吸収できるものだという気がする。それはそうと積読は確実に一生消えない。興味が更新される度に新しい本を買って、私の前に並ぶ本たちの順番待ちの列にその新しい本が割り込んでくるから。中島らも吉本ばなな、申し訳がない。多分本当に娯楽が消えるか、興味が更新されなくなった時に手をつけるんだと思う。それか、2度目の興味がそいつらに向けられる瞬間が日常に訪れるか。

 

・日記を書く人が増えて嬉しい

 

友達らで4~5人?インスタのストーリーに日記のスクショを貼る人が出た。私は先駆者だという自負があります。なんの意味もない。友達の文章を読むの楽しい。電話で双方向的に考えをやり取りすることはあるが、日記はその人が1人で考えを深めていく様子やどういった感性で日常を処理しているかがわかるから質的経験として全く異なる。日記を読むとその人が個人として生きていることがわかる、他者性なのか?ちなみにこの文章を書いている私は電車に乗っていて、斜め前に座っているショートカットの物憂げな女性が「難問数学パズル」という本をペン片手に読み解いているのを見て「いいなあ」となっています。