So Long, and Thanks for All the Fish

英語のタイトルをつけるのが悪かどうかは今度話そう。ダグラス・アダムスの『さようなら、いままで魚をありがとう』というSFの英題です。逆だ、日本語訳が後なのでこれが本当の名前だ。難解すぎて30ページくらいで挫折した。なんとなく日本語題が文としてかっこいいから教養ぶった人間に引用されがちだと知り合いの英文学者が言っていました。本題に入ります。

 

 

 

詩と短歌について、それらは書いて人に見せることが超超超恥ずかしい。見せられないのが9.9割だと思う。理由は「内面」すぎるから。書く時のモチベーションとしては単純で、自分の内側にあった感情や観念がある程度の浮力を持ったと思ったらそれをことばにしてどんなものが出てくるか見てみたい、というモチベ。作品を読むと自分も作りたいと感じる。排泄に似ているな。イン/アウトプットは表裏一体。何にせよ、作品に接するとそれを自分なりに噛み砕いて出したくなるので、時間が本当にないと思ったら短歌や俳句に逃げるようにしている、短いから。最近両方とも読んでるが夏バテした心が他人の感性をよく吸うのかすごく染みる。

ってことで以下は好きな短歌や俳句と感情ギャン出しの私の話を書く。

岡本真帆の短歌は太陽のような明るさで、さらには''女子''すぎて頭が痛くなる。けど不思議と嫌な感じは全くしなくて、この人の世界への向き合い方本当に好きだなって素直に思える。

・ありえないくらい眩しく笑うから好きのかわりに夏だと言った

・愛だった もしも私が神ならばいますぐここを春に変えたい

・ポニーテールをキャップの穴に通すときわたしも帽子もしっぽも嬉しい

自分とのギャップのデカさに殴られてしまう。こういうのを書こうとして人格をトレースしようとするとたぶん副作用で右耳が聞こえなくなるんだろうな、ってくらい遠い。

そう、いま触れたが私にとっての短歌/詩の面白さは、自分と違う人の感性を飲み込めることだ。初谷むいのメンヘラ的な恋愛観、あるいはかわいくありたいという理想、しかし直面する生活のリアルさを見つめる感性が好き 大森靖子らしさ

・夜汽車 ふみきりのような温もりで だめって言って抱きしめている

・どこででも生きてはゆける 地域のゴミ袋を買えば愛してるスペシャ


分人主義のようなキャラ論になるけど、わたしらは他人と接する時に場面に応じた人格を用意する。態度を変えているって言ってもいいんだろうけど、それは自然な振る舞いで、なんら悪いことではないと信じたい。心とは多面体であって、たとえば親の前で選択している面を友達の前で表示してしまうとままならなくなってしまう感覚。そんでこの面たちの間には使用頻度に差が生まれる。初谷むいみたいなメンヘラの面も、岡本真帆みたいな太陽ガールみたいな面も、私は少なからず持っているんだと思う。ただそれらは面積が小さいし表示する場がないだけであって、実際心情として短歌に共感ができる以上、自分にもそういう感情の動き方があるってことだと思う。存在しない記憶みたいな話だ。これも短歌の楽しさで、自分の内面を探索できるのが楽しい。自分こんな感情の動きするんだ、っていう、ある種の自己陶酔とも呼べそうな動き。

 

世界との接し方、世界への目の向け方が変わるのも短歌の力だと思う。島楓果という歌人がいて、転換的な観察と想像の力が高すぎてうらやましい。個人的にはいちばんすごいと感じる。 

・空っぽのコップが倒れたテーブルにコップの中の空気は満ちる

・鳥よけのためにぶらさげられているCDが聴く鳥の鳴き声

・さっきまで海の一部分だった両手を洗う薬用ミューズ

・渦巻きに火をつけたときから生の入れ物に注ぎ込まれてゆく死

 

コップが倒れたからといって「中の空気が零れたな」とか思わ(え)ないし、CDが主体として音を聴くという発想もない、海に浸かっていた手が海の一部分だったこともなければ、死を 「注ぎ込まれてゆく」流体的なものだと感じたこともない。人間の感覚を口語で詠むものが多い現代短歌は、視点や切り取りのアイデアの珍しさで個性を出す方向に傾いている。それは過去の累積からどうズラすかという発想で、その意味ではお笑いにも近い傾向だ。青松輝が「短歌をやると人生がちょっと変わる」って言ったけど、これは正しいと思う。ただ、「人生変えてくれるのかな」って下心を持って求める人にはなんら響かないと思う。島楓果の好きなのあとふたつ。

・無風でもわたしは揺れて揺らがないはずのものなどなくしてしまう

・罪を知り海を知らないあの場所でかすかに揺れている水たまり

日常の中のゆらぎ、世界と認識と言語、現実と想像を見極めながらも飛び越えていく感性、そのどれもが単純に美しくて、私自身の日々の小さな棘は昇華される(あるいは封じられる)ようにしてどこかに行く。

 

短歌に比べて、俳句は風景を詠むものが多い。飛躍するのは感情じゃなくて風景であることが多い。解釈するんじゃなくて淡々と頭の中に映すイメージ、写真集のように。読む人はその写真を美術館のように静かに楽しむ。小川楓子って人が好きで、特にこの四つ

・開けられぬ雨の包みを木犀を

・わが産みし鯨と思ふまで青む

・たふれたる樹は水のなか夏至近し

・ありつたけの夏野菜はてしなくわたし

「この短歌どういうこと?」って聞かれても何となく自分なりの解釈みたいなのは示すことができるけど、俳句になるとそうはいかないものが増える。風景の美しさであって、それは言語化すると途端に味がしなくなると思うので。ただ、ジブリの背景美術のような世界観の中に成立する淡い風景が綺麗で、これも非日常を形成する詩の面白みだと感じる。

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なにかに、あるいはだれかに想いを馳せて感傷的になるのが好き。修二と彰にいちばん詳しいから教室の真ん中に居ることができた子は、流行り廃りについてきっと誰よりも早く理解するだろう。自分に意見を求めてきていたあの子はいつの間にか見た目を気にするようになって、知らないコミュニティの中でまた別の人に意見を求めている。そっちには乗れないや、っていうのが何年か続いた。私以外の人は私以外の人と私が知らない言語で喋っている。


たとえば、友を見送る人の振る手に光があたっていること(あるいはその薬指に光る指輪がくすんでいること)

たとえば、ねむりから醒めたら目の前に好きな人がいること(あるいはその人がいま何かを言い出そうとしていること)

……

誰とでも生きていける確信は地域のゴミ袋が連れてきてくれる。たぶん生活をやれるんだねって誰かと笑いあう。描かれた世界と同じような世界に現実の私が暮らす。どれだけむかつくことがあっても、私にはあなたが知らない世界が見えているからどうだっていい。ありきたりな日常がすべて作品になる。

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永遠の栄華を敬虔に祈れとサバトは言った。私たちが育った街は目下に、ただ泣きながら燃えていた。街を壊さんと揺れ上る炎は、幼い頃に太陽を描いた絵の具の赤なんかではなく黒黒としている。感情が奔流となって胸に押し寄せる、その感情に向き合う時間すらも無いのだ、ということを残った心の少しで考える。祈り、それは力の及ばない対象に乞う心だ。せめて一万年後のこの地に割れんばかりの喝采を、そして、墓標にひとひらの詩を。

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