好きだった短歌

井上法子「永遠でない方の火」を読んだ。

 

水がかたちを変えて何度も登場する。色だと青が多くて、たまに火の赤さが浮かぶ。詠まれている世界の輪郭はファジーで、主体の存在もあまり意識されない(失恋の章はべつにして)。イメージも日本的な風景に限定されなくて、地球のどこか(かなり北とか)、自然と一体になって暮らす場所がしっくりきた。定型の中で綺麗に情景が描かれている歌もあるし、音の続き方が型からはみ出てリズミカルな歌もあって、現代詩の雰囲気を強く感じた。


月を洗えば月のにおいにさいなまれ夏のすべての雨うつくしい

波には鳥のひらめきすらも届かないだろうか 海はあたえてばかり

もうどこにも寄らない、淡い風を抱き、駆けだしてゆくところか 夏は

 

海辺の街の夏はイヤじゃない湿度に囲まれていて、水と生命の相性の良さを思い出す。私個人としては夏は怠くて元気出ないんだけど、環境(人も自然も)は嘘のように元気で、江ノ島とか凄い、時間の流れ方が違ってるんじゃないかと思うくらい。ゆったりとした時間の中にうまれる抒情が、月や雨や波に表象されて、読んだ後にあてのない感情が出てくるのが楽しかった。

 

以下は好きだった歌、思うことがあったものには適宜なにか書いてる。

 

終わったあとの火のさびしさを言い合えば火に泡雪を降らせる渚

・性愛ととれる読みもできる、気がする。

紺青のせかいの夢を翔けぬけるかわせみがゆめよりも青くて

・平仮名にひらいてる「せかい」「ゆめ」が気になる、ゆめは漢字もおるし。現実感で分かれてるのかな。

あかねさす瑞花を、春を見送って乗り遅れても拾える風だ

舟を漕ぐしぐさは羽ばたきのそれに似てるね こころ透きとおるのね

耳ではなくこころで憶えているんだね潮騒、風の色づく町を

いえそれは、信号、それは蜃気楼、季節をこばむ永久のまばたき

うみいろの煮こごりを食む 鈴が鳴る もうすぐここがはじまりになる

・世界のはじまりみたいで綺麗

葉月尽いとしいひととふるさとと青には青の挨拶がある

・これもめっちゃ好きだった。別れの雰囲気。

だんだん痩せてゆくフィジカルなぺんぎんが夢の中にも来る、ただし飛ぶ

・意味わかりたい歌だった、今もわかってない。意味から言葉は解放されて自由になった方がいいかもしれないのはわかってる。「夢の中にも」ってことは現実にもぺんぎん来るのか、コイツはなぜだんだん痩せてゆくのか、軽量化の成果として飛んだのか、ここでの痩せるって苦しさ全般の提喩な気がする。

白昼夢 ゆれるたましい 海だから風だから憎まれないとでも

綴じるように触れ合うように羽を梳き、愛は日照雨のようにしずかだ

永田紅の「ああそうか日照雨のように日々はあるつねに誰かが誰かを好きで」を思い出した。アンサーソングらしさもある。個人的な感想として日照雨って日常と非日常が交差することで、観測の限界(わたしが見えてないところにも世界はある)も想起される。永田の歌だと読んだ後に世界が広くなる感じがして、この歌だと世界が高くなる感じがする。

くちをひらけばほとばしる火をかみくだき微笑んでほほえんで末黒野

・これはこわい火。

はつなつの曇天、五感を持て余す深夜、(何かが臆病になる)

・歌全体も好きだけど中の「五感を持て余す深夜」が言葉として好きすぎた。何かをするでもない深夜3時の感覚って寂しいというより五感を持て余してるんだよな、こう表現できる感受性良いなってのと自分が思いつきたかったっていう悔しさ。不穏さは漂ってるけど、生活ってこういう不穏さが意外と回収されないままに進んでいく感じがあって、まあそれを繰り返すと摩耗していくんだけど。