人間性に対する手放しの賛辞

エッセイが評価されてる人って、価値観から物の語り方まで全部ひっくるめて、なんかもう「人間」としてめっちゃ評価されてるような感じがするよね。羨ましい、羨ましいというだけの文章です。言いたいこととしてはもう大団円なので、切ってもらって構わないと感じます。切らないなら書きます。

書きます、小説面白い(とされてる)人って評価対象は小説になる(≒作家その人というより作品に対する評価が立ちやすい、良くも悪くも「次回作に期待」という状態になる)んだけど、エッセイストの場合はちょっと読んで自分に合わないなって思ったら別のエッセイも読まないってことが往々にしてあると感じるんだよな。変な口調。

考察としては単純で、作品=世界をどう見るか×表現法となるんだけど、エッセイは表現法が入り込む余地がほぼないから作品=世界をどう見るか、というその人の価値観丸出しみたいな性質があると思っている。ジェーン・スーもマツコもせきしろも、私が今パッと思いついたThe・エッセイストはみんな人間的魅力があって、しかもそれが世間に周知されて受け入れられている人たちだ。「何を言っているか」と「誰が言っているか」がほとんど等価。ほとんど、ってしたのは文体とか修辞も多少影響するからなんだけど、まぁ微々たるもんだと思う。結局は人間の面白さがデカい。

んでこっからは多少ひねくれた考えで、根底には羨ましさがあるんだけど、エッセイ褒められてる人はすごく気分良く生きることができるんだろうな、って感じがする。書き始めの段階というかキャリアの最初期の方は勿論違うと思うよ、社会に対する屈折した感情とか満たされなさとかがあって、それをなんとか書いて世界に問いかけて……みたいな営みの上に成り立つ文章表現の一形態だとは思っているので。ただ、段々と評価されて「エッセイスト」っていう肩書きを得るようになると、自分の世界への向き合い方自体に価値がそのままつくようになると思うから、生き方とかが評価されている感覚が生まれるんだろうなって、どうなんでしょうね。残念なことに連絡が取れるエッセイストが居ないから確かめはできないけど、確信はしてますよ。

ちょっと話逸れるけど、沼ってるカップル間でのやりとりとか「推し」に対する感情とかは同じ屈折の仕方が見られると思う。男に対して「かわいい」って言葉を使うようになったらだいぶ沼ってやつがそれです。「かっこいい」から「かわいい」に褒め言葉が変わると、その人が何してても「かわいい」になる。失敗してもかわいい、ズボン前後ろに履いててもかわいい、なんでこんなにかわいいんだ?天使?絵画にして宗教画の端っこの方に登場させる?まじでルーブルなんだけどなにこれ^^ってやつ。なんでこんな話の逸れ方してるかっていうと、エッセイストにハマる心理は沼に近いと思ってるからです。その人の世界との対峙の仕方が好きだ、というある意味で盲目的な愛情。ただ「カッコ悪さ」に対する受容はエッセイストの方が厳しく受け取られそう。モデルとしての役割が求められる気がするので。

 

世界観の構築と提示が上手い人、すごく憧れがある。小藪千豊強い、呼び捨てにするの良くないんだろうなバレると怒られそう、トークの上手さと作劇の上手さはこの世界観の云々で説明つきそう。相手からすると未知のものを道筋立てて、その道から逸脱しつつもゴールまで運ぶ感じ。ダウ90000のネタをここ1週間で全部観きる勢いで視聴してるがこっちは会話とあるあるネタで貫いてる印象ある。若者向け、共通言語としてのカルチャー固有名詞、くすぐったくなるような恋愛をしてるコントかと思ったら「愛がなんだをやってんだよ」って人物が言ってウケる、あとは人が沢山いることを上手く使って群像劇っぽく仕立ててる。捲し立て方が四千頭身みたいで、どちらにせよ狭く深く刺しに行ってる感じがする。