本当に飢えた犬なら自分語りでも食う

 

アプリの整理をしていたら蔵書マネージャー(読んだ本の記録をするアプリ)が出てきて、最近使っていなかったから消すかなと思いつつとりあえず中身を見た。そしたら1年生の時に読んでた本の一部の記録があったので、それらの中から記憶に残っている特筆すべき本を振り返りながら、私の内面が約4年間でどう変わったのかを考えてみる。

 


破局』遠野遥

大井町有隣堂で買った本だったと思う。芥川賞を受賞していて、装丁が3:7の白と赤だったのに目を引かれて購入した記憶。


「私を阻むものは、私自身にほかならない---ラグビー、筋トレ、恋とセックス。ふたりの女を行き来する、いびつなキャンパスライフ。」


という紹介文だった。そこから「社会的に強い男が暴れる話なのかな」というイメージを抱いたが、実際その通りだった。主人公が自分の持つ絶対性や秩序、規範の力に胡座をかいて、他者(おもに女性)に対して無自覚に暴力性を振るうって話。文体が最初から最後まで異様にシンプルで、その文体によって周囲との差異から浮き彫りにされていく主人公の異質さが際立っていく効果があった。この本をきっかけに(小学生の読書感想文みたいな書き方するな)、社会通念とか秩序とか暴力という概念に興味を持ってフーコーについて勉強した記憶。1年生の時はそこまで小説読んでなかったかもしれない。『推し燃ゆ』『JR上野駅公園口』あたりも記憶に残っている。


夜空はいつでも最高密度の青色だ最果タヒ

案の定、最果タヒは好きです。わかるようなわからんような、『The 詩』って感じ、桃色のうさぎと藍色の無限の世界観。それは大森靖子だろ。詩とか短歌が好きっていうのはMBTIなどの各種性格診断だとゴリゴリに論理的な嫌な人間だと診断されることが多い私の中に残された唯一の感性部分なのかもしれない。現代短歌は割とロジカルなところが多いのではないかと感じる。決められた文字数の中で、受け取り手にイメージを想起させるためにはどう言葉を選択したら良いか、受け取り手の側ではそうした作り手の試行錯誤を読み取りつつ描写を膨らませる、読解力によって世界観を規定していく共犯性みたいなのが好き。詩は短歌に対すると相当自由で、それは定型が無いことや心情描写に振り切ってる作品が多い印象なことに拠るんだけど、だからこそ好き嫌いがクッキリとわかれる。最果タヒは「自分だけ」の感覚をずっと書いているような気がする。自分よりも孤独な人、自分よりも悲しい人は無数にいるが、雨の降る中で自分だけが傘を忘れていた、という孤独さを帯びた孤独さ、伝われ。

大学生になってこの辺の詩や短歌にしっかり足を突っ込みはじめて、変わったことといえば言葉遣いに気をつけるようになったことと他者の視点を意識するようになったことだと思う。言葉遣いはまぁとして、他者の繊細さや抱えている悲しさみたいなものが表出されえない状態で成り立つ社会、を想定するように変わったんだと思います。要するに詩の世界の感性豊かな登場人物はあの人かもしれない、と思いながら暮らすことで慎重に振る舞うようになったということ。この時期は俵万智とか穂村弘の教本めいたやつも何冊か読んだ、理性で発想して感性で詰めてるみたいな作り方をしてたから虚をつかれたんだよな。


『論理学入門』野矢茂樹

ここにきて急に論理、変なやつの家に連れ込まれたみたいな感覚。まぁ大事。1年生の時に買

って読んだんだけどなんで買ったんだろうな、論理力が欲しかったんだろうか、なぜ? んでもってこれを読んだからといって特段日常生活において賢な振る舞いをできるというわけでもない。思考のフレームワークにもそんなにならない。興味関心が大きくなる、というところに意味があったと思う。というか読書の効用はこれかなりデカいんじゃなかろうか、ミクロ経済学の技!みたいな学問の演習書でもないかぎり、それを読んだからといって即座に何かが変わるわけでもなく、本を1冊読み通す程度には自分はこれに興味があるんだ、と自覚する効果。そんでもって普段の物事を観察する視点がちょっとだけ変化していって、バタフライエフェクトのように少しづつ振る舞いが変わっていく。この類でいうと本多勝一『日本語の作文技術』、安住紳一郎齋藤孝の『話すチカラ』、細谷功『具体⇆抽象トレーニング』あたりも面白かった記憶。少なくとも高校生の時よりかは今の方がちゃんとした考えを作る下地ができているとは思う、そこそこに。


とまあ自分の1年次の読書を振り返ると、とりあえず基本的な興味の分野とかは変わってないな、と気づいた。今でも短歌や重めのテイストの小説、論理的な諸々には興味がある。

違いとしては小説の読むジャンルが増えたこと、YouTubeに可処分時間が割かれる割合が増えたこと、エンタメ系統(お笑いなど)にリソースを使うようになったことが挙げられる。そのあたりの変化については塾とココナラ、あとは鶴田村上との何を話題にするでもないお喋りが大きそう。1年の夏くらいに某クリニックで「考えすぎの傾向にあるから深みにハマらないようにするのも大事だよ」と言われて以来、歩きながら何かしらを考えることはだいぶ減ったと思う。最近は課題の内容について考えてしまっているんだけど、まぁ時間が経てば減るでしょう、バランスがとれるはず。今回のような「内省的な考えを文章化して外に出す」ってのは約4年間で新たに得た振る舞いかもしれない。目的はなんなんだろう、自分の考えを言語化して客観的に捉えたいのか、あるいは自分の考えを見てくれや!という自己意識なのか。