懐古回顧クロック

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アルバムが「これ10年前だぞ」って出してきた。懐かしい、レタリングと陰影の付け方が上手い。この手の芸術系のスキル、中高にかけてほとんどを失った気がする。中2くらいがありとあらゆるセンスのピークで、後は知識偏重になって衰えていっている気すらする。中学生の頃には既に性格がほとんど今と同じだった。お笑い好きの父親から出された「こんな洗濯機は嫌だ、どんなの?」という大喜利に対して「せんたっきじゃなくてせんたくきだ、と主張してくる」って答えていた。生徒に居たらめっちゃ可愛がる自信があるな、我ながら。当時の自分の性格クソ好きかもしれない。今の性格は嫌い。さっきほとんど今と同じって言っただろ、というご指摘が出そうだけど、中学生でこの性格っていうところに良さがある。今では大したことないが中学生にしては賢いしセンスがある。昔の自分を手放しに褒めることができる人間。


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中2くらいに撮った写真。中学生が持つカススマホだから画質は悪いけど(にしても悪すぎるので多分加工かコピーかで劣化している)、どういうのを撮りたかったのかという意図は今でもわかる。空が綺麗だったからそれを残したかったんだけど、建物とか草むらがあっての綺麗さだと思ったから空と草むらを建物を軸に対比させるような構図で撮りたかったんだと思う。建物と道が平行していてきれい。

 

 

 

小6~中2にかけてはドラコレってゲームをしていた。ソシャゲで普通に楽しくてハマってたんだけど、RMT(リアルマネートレード)をすれば儲かるんじゃないか、と思い立って(違法なのでやめよう)、友達を誘って株取引のようにゲーム内のアイテム相場を日々記録して、高くなるタイミングを予測しつつ売買を重ねて、最終的にゲーム内のオークションに出品される回復薬(価値があったアイテム)の流通量を左右できるくらいには有力になっていた。アカウント、売れば50万くらいになっていたらしい。売ればよかった、シンプルにゲームが楽しくなってしまっていた私らの初志貫徹力の無さ。そんな大金を仮に得ていたとして当時の私は何を買うんだろう、それを元手に株とかしてそう。大人ぶりたがっていたから。中2の時に韓国に行って仲の良かった友達と「美容品めっちゃ質いいし安いから日本に持ち帰って売れば儲かるのでは?」という話をしていたからそれかも。俗物的だ。

 

ドラコレに飽きてからはスターホースっていう、ゲーセンにある競馬のメダルゲームをするようになった。これも同じ友達らとやっていた。馬を育ててレースに出させて勝ったら賞金が貰えて……っていうシンプルな仕組みなんだけど、人2人くらいが座れるでけえゲーミングチェアとテレビくらいの大きさの3面モニターが付いたプレイ用の座席が9席(説明下手すぎたから想像つかなかった人はスターホースで検索してくれ)、その前方にはレースなどを映し出す5メートルくらいのモニターが1台あって、そのなんとなく高級な感じと臨場感とギャンブル勝負のヒリヒリが楽しかった記憶。メダルゲームだから金つぎ込める大人が圧倒的に有利なんだけど、賞金が高い特定のレースにだけ強い馬を作ってそこで絶対に勝つ、自分が出した馬の馬券もメダル大量にぶち込む、という戦略を組んだおかげで獲得賞金額みたいなもので1位になっていた。


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大勝ちの記録があった。自分の馬にそんなに仲良くもないクラスメイトのペットの犬の名前をつけていたりした。

 

 

家ではお笑い好きの親に感化されて、M-1の2001~2010とガキの使いのDVDを繰り返し観ていた。笑い飯だけを再生して年度が変わる事に試行錯誤している様子とか変わらない部分を楽しむ中学生、良い。あと死ぬほどテレビっ子だったからバラエティは視聴予約して計画的にほぼ全部観るようにしてた、録画すれば再生速度を1.4倍にできると気づいてからは効率的に回すようにした。今もYouTubeは2倍速で観るのでそのへんは変わっていない。NHKでやってたケータイ大喜利とジャンプの巻末の読者投稿コーナーの大喜利にも投稿していた。どちらにも赤嶺総理が投稿していて強かった。言葉遊びとかメタっぽいのが好みだったんだけど、中学生の語彙力とか、自分が知っている文脈の狭さを考えるとそこでは採用されないと思って、ベタな学校あるあるとか、ツッコまれることを前提とした、それ単体で成立していない突飛な投稿で何度か採用されて喜んでいた。早熟なガキだ、可愛げがある。投稿用の名前は「○○伯爵」だったが、いま思うと総理の上を行きたい心理だったのかね。

 

構成作家になりたい、って父親に伝えたのも中二の終わりくらいだったと思う。そうか、と喜ぶでも悲しむでもない謎にニュートラルな反応だった。思いつきで将来の夢を色々と言ってたからそんときもまたすぐ変わると思われたのかもしれない。銀の匙に影響されたら農業高校に行きたいと言い、宇宙兄弟に影響されて航空高校に行きたいと言い、就職が強い!という触れ込みと専門性に憧れて高専を受けたいと言い、子供特有の万能感と自分の能力への過信(試してみたい欲)からとにかく着手だけはしてすぐにほっぽり出す性格だった。

 

中1の時に親に連れられて行ったキャンプ(両親はライブハウスのような知り合って結婚した陽キャなのでその繋がり)で、知らんおっさんに「高校どこ行きたいんや」って聞かれた。なんで知らんやつにこんな不躾な口調で将来を聞かれないといけないんだ、どうせしょうもないアドバイスを子供に与えたいだけだろ、とひねくれつつ、そういえば高校とか考えたことなかったな、と思ってその場で時間貰ってスマホで「福岡県 高校」で調べると福岡は学区制(住んでる地域ごとに受けられる高校が決まる)であることがわかり、私の住んでる地域で行ける高校の偏差値ランキングが出てきた。んでもって筑紫丘はランキング1位で偏差値72とか書いてたこと、学食のからあげが美味しいこと、校則が緩いことを知って、筑紫丘にすると答えた。おっさんは「ガオカ行けたら金やる」って言ってくれた、そういやくれてねえな。

 

しかしまあこれまで振り返ったように私の中学3年間はゲームとテレビを中心とした楽しいものに吸い尽くされていたので(サッカー部に入っていたがノリが合わずに途中で辞めた)、中2の終わり時点では公立中にも関わらず定期テストの点数が学年平均ちょい上程度(280/500が平均なら300くらい)というまあまあな状態だった。授業中はめっちゃ理解できるけど家で復習しないし、学年が進むにつれて前の分野の知識を前提とした授業が増える(英語など)から、理解も段々とできなくなっていた。親はどちらとも勉強しろって言ってこない良い親だった、筑紫丘行きたいって言った時は喜んでたっぽいし受かった時も地域でのネームバリューもあり喜んでたから高校いいとこ行ってくれよとは思ってたんだろう。にしてはよく静観していてくれた。

 

中2の3学期の期末テストは受験学年入る前に変わっておかないとまずいのではないかという危機感から色々と努力した。冬休み、学校の授業は最早理解できていなかったので、自分で科目ごとに参考書を買って年末年始で中1からそれまでにやった範囲を一通り勉強し直した。学校の授業の内容がわかるようになって、これで定期テストの土俵に立てた、と思った記憶がある。ワーク類も周回した、回数に意味はなくて自分が理解できているかどうかが肝要だと思ったので親に手伝ってもらって出題を頼み、英語の単語を覚えながら横から親に社会や理科の一問一答を出してもらっていた。良い親。良い子供。良いマルチタスク。中3の2学期になる頃には480点くらい取れるようになっていた。家での勉強方法は変わらずだが、英進館にぶちこまれたことで受験に特化するようになった記憶がある。1年間で偏差値が20上がってて、筑紫丘受かった子の中で1番偏差値伸びて合格してたよ、って塾で言われたから中々に頑張っていたんだと思う。若さゆえのエネルギーだな。

 

振り返って分析すると、当時と今で大きく違う点は、知識が詰め込まれたことによる振る舞い方の初期動作の変化だと思う。とりあえずやってみる、コツがつかめるまで手と頭を動かして、当たりそうなことは全部やりつつそれらしい戦略が見つかったらそっちにシフトする、みたいなのが当時の私の振る舞いだった。そしてそれは今の私が取るような、作戦含めて前もって色々考え、リスクあると思ったらやらない、みたいな腰が引けた振る舞いよりも圧倒的に正解だと思う。無鉄砲さを担保してくれるだけのセンスを、間違えたとて後からリカバリーができるだけの能力を、周囲の人々との相対的な立ち位置から判断したときに自分は他人より持っているという幼児的な万能感が当時の振る舞いに寄与していたっぽい。とりあえずやってみる精神は今でも取り入れられるし取り入れるべきな気がする、ビビりになっている。とりあえず全体を終わらせて、そこから完成度を高めていく、みたいなのは中学生の頃の勉強の手順でも出来ていたのに、今だと最初から完成度が高い部分を積み上げて全体を構築しようとしてしまっている。それだと工数や時間の見積りができなくて結局の完成度が下がる結果を招きかねない。知識が増えたことで「正解」と思えるような他者の表現のストックができたからか、それに囚われている気がする。オリジナリティの低さや作業手順の滞りが生まれるんだよな、そしてこれらは思考の整理学で言われてたような内容だったと思う。知識偏重良くない!っていう文脈。読んだ時はある程度懐疑的だったけど、いま思うとそれなりに納得できるな。なんでこんな自分語りでしかない懐古文章を書いているかと言うと、頭の中で思考するのが苦手だからだ。最近気づいた。できなくはないけど、こうやって文章にしながら考えた方が頭の中がまとまる。書きながら考えて、さっき何考えてたっけって読み返してまた書いて考えて。構成はすなわち自分の思考の順番になるので全くもって綺麗ではないけど、まあいつか成長した時には最初からそれなりの構成のものが書けるようになっているだろ、という楽観。全然段落変えれてなくて読みにくくなってきたのでおわり。