千種創一

千種創一の歌集『千夜曳獏』を読んだ。
後輩の女の子に借りました、ありがたい。歌集全体として満足感がすごかった。強度をもった詩の前では私がどう言葉を編もうと行き着く姿が無粋にしかならないから、せめて短歌の強さを活かすために好きだったものをあげて個人的解釈を付していきたい。ちなみにこれを書いている現在(2023/10/08 04:29:39)、アホほど眠くて私にはタイムリミットがある。理性や意味とかけ離れたところの感性だけで読むのがいちばん良いのでね、きっと。

どれくらい登れば海が見えるのとあなたの声、鳥の声、汽笛

三種類の「声(音)」が登場していて、たぶん後になるほど遠いのだろう。聴覚だけで描かれた世界なんだけども果てしなく広がっていく印象がある。このあとにえらんだ短歌にも共通するが、私は短歌を通して自分の好みや感性を知りたいと思うし、この歌だと広がりの感覚が好きだ。そして色は少ない方がいい。

朝の河を見たいのだろうセーターの袖で車窓の露を拭って

ぜんぜん始発の電車でも読めるんだけど個人的には冬の寝台列車の中の様子だと読んだ方が綺麗だと感じた。旅路、恋人と寝台列車に乗ってどこか遠くにおり、その恋人が車窓を袖で拭うシーン。「朝の河」と「車窓の露」の遠近大小の対比的構造が奥行きを生んでいる。「見たいのだろう」と断定を避けているからふと目覚めたら恋人が拭ってたのかな。冬の川はすこぶる冷たいんだろうな。

これ走馬灯に出るよとはしゃぎつつ花ふる三条大橋わたる

感性すご、となったので選んだ。思い出に残るであろう景色を見た時に、走馬灯に出るだろうなってとこまで思いが至るのはある種でネガティブであり、しかし口調や様子には底抜けのポジティブさも見える。二人の関係性がその後も変わらないことを了解している口ぶりって感じだ、ふたりの暮らしは地続きで、どちらか片方が死ぬまで続く。そう思うと三条大橋をわたるってのも三途の川をわたるような、生死にかかわるイメージの想起につながるのかな。

熊蝉がうるさかったら沈黙をあるいはやり過ごせたかもしれず

こういう仮定形なことばが好きなんだよな、ほんとうは「熊蝉は静か」で、「沈黙をやり過ごせなかった」というところから連想がはじまるので、受け取り手としては規定されつつも自由度が比較的高く読める気がする。沈黙がやり過ごせなかったらどうなるんだろう。気まずい雰囲気が立ち込めて、しかも周りは思ってたより静かだし、というかなぜ二人(それもわからんが)の間には沈黙が流れたんだろう、告白でもしたのかな。みたいなことを考えるのが楽しい。

黒に染めたあなたの揺れる髪の毛の、鯨はかつて陸を歩いて

この後出てくる歌にも言えるんだけど、現在の風景(物)と、かなり大きな時間の前後(千年後の歌)が出てくる歌が好き。作者は失念したんだけど俳句甲子園の「夕焼けや 千年後には鳥の国」のような、夕焼けと人類滅亡・鳥の隆盛が心象に飛躍してあらわれる感覚が、詩の自由闊達なところで良いとおもう。黒染めした髪の色に鯨の体表のような印象を抱いたんだろうか。髪の毛のゆれるゆっくりな感じと鯨の歩き方(そんなものは知らないが)のおそらくゆっくりな感じもわかる。空想でしかない。森博嗣の未来的世界観(機械都市)が好きなことにも通ずるが、現在と遠く離れた時空に馳せる感性が壺なのかもしれない。

海上の国境みたいなあいまいで明るい時間をあなたと寝てる

想起されるイメージが海上からベッドに収束していく感じと、しかしあいまいな肯定感のまま終わる感じが詩的に合わさって好きだった。記憶されない日常、陽だまり、多分そんなに広くない部屋、部屋から世界に発する想像力、掴みどころがずっとない。やべ〜ねむくなってきた。

蛍、千年後も光ってて 終電に向けてあなたの手を曳いている

そうですね、似たような好きな理由だ。蛍と終電、千年後と終電(文明の象徴として?)。なんか最初読んだ時には「千年後も終電って残ってるのかな、あなたも生きてるし」みたいな読み方をしたんだけど、別にそれでもいいな、綺麗。死んだあとの世界では美しい情景だけが延々と上映されていてほしい。そこでは走馬灯をゆっくりと安心して観られるんだろう。

利き手じゃない方で林檎を剥くように生きてあなたの夕景に逢う

不器用って表現したら早いんだろうけど味がなくなる、上に結構変わるしね。たどたどしくはあるけど確かに前に進んでいて、けど見返すとガタガタな感じ。そうやって生きていて、救いとしての恋人に会う時には本当に心がゆるむんだろうな。「あなたの夕景」であって「夕景のあなた」じゃない以上、主役は「あなた」だと捉えている感じが自己肯定感の低さみたいに読めて切ない。「私」は主人公じゃなく、「あなた」の人生の登場人物だと自分で規定しているような印象。やっとのことで生きているような切実さが全体から溢れていて心にざらっと残る。

冬時間へ時計の針をもどすとき眼からあふれてくる夏のみず

肉体と精神のギャップを指摘する観点が今までにない角度からだったから印象深かった。いま生きてる時間は夏だからそりゃ泣いたら夏のみずが排出されるよな、けど気持ちだけは冬に戻る。いまが季節の変わり目だからことさらに感じるけど、寒い時期って人間、さみしくなる。人肌恋しさが強制的に発動される。恋愛の歌って冬と春と相性がいい。身体感覚と精神の結びつきってとくに日常を平凡に過ごしているだけだったら見逃してしまいがちだ。


最終ページの二首がまとまりとしてすきだった。終わりがすてき。

胸がとても冷えていく ヒヤシンス、あなたの未来のように確かだ

エクレアの包(フィルム)をひらく 潮風も希望もそこに乱反射して

未来とか、希望とか、まあ手触りのいい優等な単語ではあるんだけど、そこに取り合わされるのはヒヤシンスであってエクレアの包でもあって、ほんとうに微妙に生活からはとおい。無機質な感じも両方から感じられる。けどまちがいなくめいっぱい前向きだと思う。

違和感、ザラつき、サラッと読めない感じ、現代詩の性質は読みにくさわかりにくさに宿っているらしい。どっかで読んだ。実用性を脱ぎ捨てて、意味すらも捨て去って、稀少性に鋭くなっていく感じ、そのとき文法も意味も邪魔なのかもしれない。連想だけだ。作者の背景がきちんと反映されていて、季節と場所を旅している感じのするいい歌集だった。

コーンフレークをこぼれる鱗とおもうとき朝という在り方は魚だ

まだ熱いあなたの髪を手ぐしする、火を炎にしたら負けだね

どうやっても悔やむであろうこの夏をふたりで生きる、花を撮りつつ

堤防のほそきを来るときにあなた、蜻蛉のように腕をひらいた

食卓に君の涙が落ちるたび草原の蘇りまた枯れる

生活の感覚と刹那さ、いつか終わりがくることを了解していながらもそこから目を背けて今の時間を大切にする感覚。千種の世界観は綺麗なんだけど、悲しさが常に内包されていて読んでいてどこか不安になる。それが好き。

眠気に耐えて少しづつ小説やら詩集を読んでいる時の私だけがほんとうの自分なのかもしれない。私だけのいのち、他の誰のためでもなく、幸福な孤独はしかし死(=睡眠)に近づいている感じ、受け入れる、宗教ダイアリーみたいになってないか?大丈夫?おやすみなさい。

白皿に茄子を裂きつつ未来とは時間ではないいつか行く島