季節性の風邪のような

 

塾で大学受験生に勉強を教える行為、基本的には大学生がやるべきことではないと思っている。理由は単純で、予備校講師と比べた場合の経験と知識の乖離が巨大すぎるので。

それでも敢えて意義を見出すとしたら個別性と、良い意味での俯瞰性に頼るしかない。だからたとえば英語の五文型を教える時には、受験での(他教科も含めた)重要度とその後の学習法(プリントを渡して教材を指定するまで含む)と定着度の観察をやらないといけなくて、受験勉強でふつう養われる自律の精神とか戦略の立て方まで個別でやるのはたぶん不可能だと思う。あとは勉強に対するモチベーションの種類が似ていることも年上の予備校講師に比べた際の優位だと思う。時代の流れに頼る感じ。だから英語だけとか日本史だけとかで生徒を持つのはあまり良くない。けど変な話ではある。1科目でやってる人に勝てないんだから、なんで2科目も3科目も大学生ごときが教えられると思ってるんだ、という話で、だからこそ総合的な受験勉強ってところに着目する(あるいは逃げる)必要があるんだけど。1時間4000円強払って大学生に自習を見てもらえるサービスを提供するだけになる恐れがあるんだよな、悲観論すぎるか。勉強の方向に向かうという目的がない雑談も付けてしまうかもしれない。落語みたいな単価で雑談話を聞ける。つまるところ、それなりの受験結果を得させるために非プロの講師ができるのは方針立ててそれを実際の教材進行に割り当ててその定着度を見て計画を立て直して……ってことと、「これしかできないしこれが私らにできる最大値だよ」ってことを暗に伝えることだけだと思う。その時、英文法の知識やサータヴァーハナの知識は単にミクロなレベルにとどまるに過ぎず、マクロでの授業外での自学自習のモチベートと具体的方法の指示でしか価値は出せない。