第二問

次の文章は『抜け駆け』の一節である。主人公の夏美は大学一年生で、四月に長野から上京し、現在は学業の傍ら家庭教師と学習塾の講師のアルバイトをかけ持ちしている。以下は、夏美が塾の先輩である優斗と会話する場面から始まる。以下を読んで、後の問1から5に答えよ。

 

「優斗さん、今日はもう終わりですか?」

「うん、次の時間の生徒が体調を崩したって連絡があってね。片付けたら帰るよ」

「そうなんですね。あの、」

言葉に迷い、会話にはここで一瞬の①クウゲキができる。自分も終わりだからこの後一緒に帰らないか、ということを言おうとしたが、自分の△ポリシーに反することに気づき、思いとどまったためだ。

「ん?どうしたの」

優斗は会話が止まったことに対してか、少し不安そうとも怪訝とも取れる表情で夏美の方をじっと見る。目に少しかかる程度の長さの前髪を払いつつ、夏美の方に一歩だけ近づいた。

「い、いえ。やっぱりなんでもなくて、そろそろ授業始まっちゃうんで失礼しますね」

必要な教材を棚から取り、足早にその場を後にする。危ない、こんなところが京子や恵美に見られたら、「同盟」が②ハタンするところだった。

四月に上京し、その月のうちには学習塾と家庭教師のアルバイトを始めた。家庭教師の方が金銭的には好条件だが、学習塾の方を辞めるつもりは働き始めて三ヶ月が経った今の所全くない。それは京子や恵美といった同学年の友人が出来て、大学以外のコミュニティに属せる環境が有難いのもあるが、いちばんは講師になってすぐの研修を担当してくれた優斗の存在だった。

柔らかい物腰と、都会らしい洗練された雰囲気。160cmの夏美が底の高い靴を履いても頭一つ分は高い身長に、清潔感のある服装。黒縁の眼鏡をかけているが野暮ったさは無く、むしろ彼の雰囲気にマッチしている。少なくとも夏美の地元には居なかった種類の異性だった優斗に対し、関わってほとんどすぐに好意を抱いた。しかしそれは恋心にまで発展することはなかった、その後に仲良くなった京子たちも同じような感想を抱いていたからだ。

授業が終わり、京子と恵美の支度が終わるのを少し待って一緒に塾を後にする。

「お疲れ様〜遅かったじゃん」

「どうしたの夏美、なんか機嫌いいじゃん」

「だよね、もしかして話したの?」

「そう、わかる? 今日も超カッコよかった。あの人話す時めっちゃ目合わせてくるんだよね」

「わかる、あざといまであるやつね」

「そう! あんなん私たち以外にも絶対推してる人居るじゃんってやつ。居たらどうしよう」

「どうしようも無いってば、まあけどそりゃそうかって納得もするけどね……」

三人で居る時は基本的に夏美と京子が多く話すことが多い。深い理由は無く、二人がヒートアップしながら「推し」について話すのを恵美はくすくすと笑いながらたまに口を挟むのがお決まりの雰囲気となっている。

「推し」とはすなわちこの三人の中では優斗のことであり、彼の名前を出さずとも推しと言うだけで通じる符牒のようなものだった。ふつう「推し」はアイドルに対して用いる言葉だが、それを身近な人にも適用できると知ったのは京子と恵美と話しているうちのことだった。手が届かないことは暗黙のうちに了解できている、しかし魅力ある対象について誰かと語り合いたい時に都合の良い合言葉、そんな言葉として「推し」は十二分に機能していた。

「ねえ、夏期講習ってどれくらい出勤する予定?」

京子がリュックサックの脇から取り出したペットボトルを取り出しながら二人に問いかける。

「んーと、テストが再来週に終わって後はレポートだけだから、その後はそんなに予定ないんだよね。遊ぶ日だけ先に決めとこうよ」

「そうしよ。そういえば来月にあるアレ、どうする?」

恵美が言うアレ、とは塾の先輩講師たちが企画した親睦会のような集まりだった。昼過ぎに集まり、ボウリングをしてから夕方から食事をするという段取りらしい。

「迷ってる。来るのかな、だったら迷わず行くんだけど」

手持ちの扇風機の風を首筋に当てながら夏美が言う。七月は夜であってもじわっと蒸すように暑い。東京の暑さは長野のそれとはずいぶん種類が違うように感じられた。

「幹事の人たちと仲良いし、たしか同い年だよね。日程のアンケ匿名だったけど来ないの何人かだけだったし、きっと来るよ」

「優斗さん、今日ほかの先輩たちとその話してたから多分来るんじゃない? ね、行こうよ」

「え!まじ? じゃあ絶対行く。ていうか早く言ってよ。迷ってるのムダだったじゃん」

大事なことを早く言わないのと、隠し事がある時に目を合わせないのは付き合って三ヶ月程度でも発見できた恵美の特徴だった。夏美の言葉に恵美はほんの一瞬だけ申し訳なさそうな顔を作った後、悪戯そうに微笑んだ。

「えー私服どんなんなんだろ、ていうか暑くなったから最近シャツになったのも良いよね。スーツじゃわかんなかったけど意外と腕の筋肉あるっていうか」

「出た、夏美の筋肉フェチ。こないだからずっと言ってるよね。いやめっちゃ思うけどそれ」

「いやーでもネクタイも名残惜しい。毎回ちょっとずつ柄変えてきてたのポイント高いよね」

「わかるー、ずっと見てられるねあんなん」

優斗と話すのも勿論楽しいが、推しの話題の中できゃあきゃあと届かない距離から喋っているのも負けず劣らず楽しく思えた。しかも、「推し」ているに留めておけば優斗との関係性は変わらない。対象化することで幻想を抱き続けることができる。彼我の距離を保ちながら恋心を昇華できる便利な言葉だった。きっと報われないかもしれない恋愛感情が芽生えるのを阻止して自分が傷つかないようにするための一種の防衛機制として、あるいは友人らと一緒に話題として他者を恋愛的に消費する際の合言葉として、「推し」以上に都合に合う文句はない。

そして、あえて意識的に考えないようにしているが、彼女たちにとって優斗を「推し」と呼ぶことにはA[それら以上の意味合い]が含まれていた。抜け駆けして誰かひとりが優斗と親密な関係になることを③ケンセイ,する、防衛線的な役割だ。必要以上に話さないようにしよう、連絡先の交換なんて以ての外で、知り得た「推し」のことはなんでも共有する。アイドルの目撃情報をSNS上で見知らぬ人のツイートから知るのと同じように、身近な推しである優斗の情報も三人の中ではあっという間に④カクサン,され、話題となり、感情を揺さぶらせる。そうやっていると夏美は自分の中に時おり芽生えそうになる淡い恋心のようなものをぼやかすことができた。推しているだけで幸せなんだ、という言い聞かせるような気持ち。連帯感の方が今はきっと大切で、だからこそ感情に名前がつくようなことは避けたい。自分がその線を踏み越えないのと同じことを、他のふたりにも課したい。条約とも呼べる枷だった。

その日、普段より明らかに恵美の口数が少ないことに気づいたのは残り二人のうちで恐らく夏美が先だった。

「ねえ、恵美どうかした? なんか元気なさそうだけど」

「えっ、あ、いや。ちょっと明日の課題ヤバくて一瞬気を取られてた、そんだけ」

それがその場しのぎの嘘だということは二人にはすぐにわかった。恵美はすぐ表情に出るタイプで、隠し事がある時は話す時に目を合わせない。優斗と同じ大学であるとわかったにも関わらず隠していた時も、この反応だった。

「いや、嘘だね。バレバレ。怒んないから私たちにだけは素直に言いなさい」

ケタケタと笑いながら京子が言う。

「実は優斗さんのことでさ、」

さっきまでも話題に出ていた名前であるにもかかわらず、恵美の口からその様子からは予想されなかった優斗が出てきたことによりなんとなく空気が張り詰めた、ような気がした。

「えっ、どうしたの」

「私が優斗さんと同じ学部だったって話は前したじゃん? それでね、今日授業終わって大学出て、駅に向かってたら前の方に優斗さんが居たんだよね。でも、見間違いとかじゃなくて、なんか女性と一緒で」

「えっそれほんと?」

夏美と京子は二人して口元に手を当てて、同じような驚きの顔を作った。どちらも作為的な表情ではなく、本心からのポーズだった。

「うん、言おうか言わないか迷ってて、ごめんねずっと私なんか落ち着かなくて」

「いや、全然いいよ。教えてくれてありがとう」

口ではそう言えた、夏美は自分の社会性らしきものを褒めてやりたくなった。内心ではただひたすらに動揺していた。その動揺は自分の中にあった直視したくなかった感情の答え合わせにもなっているようだった。まだ隠し通していてくれれば良かったのに。隠し事が無くなってすっきりしたような恵美の表情の動きが、少しだけ大袈裟にも思えた。そう感じる自分の気持ちが嫌だった。筋肉痛になってはじめて背中の存在が日常の中に立ち現れて感じられるように、優斗の存在が今の自分にとってどれだけ当たり前だったかを痛感する。いや、優斗の存在、というよりかは「推し」の存在かもしれない。

話題は別のものに直ぐに変わった。大学のレポートで読まなければならない小説のリスト、そのどれにも興味を持てなくて困っていること。学期中に3回休むと単位が貰えなくなる授業でリーチがかかっていること。会話はできている、けど自動操縦のような自分の身体。※ペッパーくんって今何してるんだろう。

いつの間にか塾から歩いて10分もかからない三人の最寄り駅に着いていた。少しだけぎこちなくなった会話が終わることに一縷の安堵を覚えた。二人とは簡単に言葉を交わして別れて、夏美だけが逆方向の電車に乗り込む。イヤホンを取りだし音楽をかける。高い声の男性ボーカルが恋心を歌う曲、久々に聴くその曲の歌詞は以前にも増して空々しく思えて、すぐに窓の外の移り変わる景色に目を向けた。「愛してよ」とゼッキョウする声が耳元で響いて、考えるより先にスマートフォンの音量を0にまで落とした。間もなく自宅の最寄り駅だと告げるアナウンスがふと聞こえて、B[最初よりは小さな音量で曲を流すことにした。]

※ペッパーくん……感情を認識する人型のロボット

問1 ①から⑤のカタカナを漢字に直して組み合わせた時に現れる熟語を1から5の中からひとつ選べ
①クウゲキ
②ハタン
③ケンセイ
④カクサン
⑤ゼッキョウ
1協賛
2惨劇
3研鑽
4制空
5盛況

問2 △ポリシーの本文中での意味として最も適切なものを以下の1から5の中から1つ選べ
1.価値観
2.倫理
3.理念
4.規範
5.感覚

問3 本文中で繰り返し登場する「推し」という言葉について、正しく説明していないものを以下の1から5の中から2つ選べ

1.自らの恋愛感情の増大を防ぐための言葉
2.対象をそれに押し込めることで自分の実感情に向き合わなくて済むための言葉
3.他人について他者と語る時に都合の良い合言葉
4.身近な人間をアイドルのように扱うことで自らの恋愛感情を上手く処理する言葉
5.人間関係上、関係を発展させることが難しい相手との恋を終わらせるための言葉

問4 A[それら以上の意味合い]とはどういうことか。最も適したものを以下の1から5の中から1つ選べ。

1.日常生活に最早当たり前となった優斗の存在を一層強く感じられるだけでなく、それを他の二人と共有することで確認できる意味。

2.優斗のことを恋愛対象として消費できるだけでなく、その情報を共有しやすくなることで幸福感を得やすくなるという意味。

3.優斗のことを恋愛対象的な相手だという記号に落とし込めるだけでなく、自分の中の恋愛感情に理屈をつけて昇華できるという意味。

4.自分が優斗に好意を抱いていることを暗に意味するだけでなく、他の二人が裏切って自分だけ優斗と関係を発展させることを罰する意味。

5.自分が優斗との距離や関係性を維持できるだけでなく、他の二人にも同じことを連帯的に求めることができるという意味。

問5 B[最初よりは小さな音量で曲を流すことにした。]とあるが、この時の夏美の心情を最もよく表しているものを以下の1から5の中から1つ選べ

1.「推し」である優斗が他の女性と歩いていたことを知り、一定の距離を保っていた自分たちの行いが馬鹿馬鹿しく思えて落胆している心情。

2.想いを寄せる優斗に親密な関係だと思われる女性が居ると知り、困惑してそれから目を背けたくも、詳細を知りたくもあるような複雑な心情。

3.好意を抱いていた優斗が自分たち三人とは関係ないところで他人と関わっていることを知り、無力感に打ちひしがれている心情。

4.恋愛対象である優斗が自分の手の届かない場所にいるであろうことを知り、恋愛からは距離を置きたくなっている悲観的な心情。

5.優斗に対して一定の距離から無責任な好意を向けていた自分たちとは異なる、親密な関係を築いている女性が居ることを知り、その女性に嫉妬する心情。