感情的思考の獲得

献血カーを見た、日曜日にもやってんだ。公園があるところの脇道に停まっていた、周囲に誰も居なかったことと相まって超然的な雰囲気を感じた。中で何が起こってるんだろう。

日常から断絶された献血カー、その中ではいくつかの輸血パックが床に落ちていて、なぜか穴があいている。脅迫的なまでに黒々とした血液が床に漏れ出し、一面を黒とも赤とも形容しがたい色に染め上げている。時間経過とともに、車中に留まらなくなった血液は扉の部分から外へと染み出始める。献血カーが血を流す様子、しかし誰も気づくことはない。私だけはそれを見ていて、こうして日記に書いて不思議なこともあったもんだと思うに留まる。

・恐山のnoteを見返している
楽しい 文体と着眼点がやはり好きです。人の日記読むこと自体に楽しさを覚える。去年の春先から登録してるから、それ以降のは毎日欠かさず読んでるはずなんだけど新鮮に読める。遡って読んでる、今は2022年の10月だ。

11月くらいにvapeっていう水蒸気出る煙草モドキを吸い始めた話をしていた。ニコチンなどが含まれないから有害性も依存性も無いこと、依存性が無いがためにvapeを吸う習慣ができないことなどを言っていた。あと、煙草を吸う人の心理は多分、作業の区切りや効率性を高めたい(作業という本筋を中断せずに吸えるから)んだろうって言っていたが、それは違うと感じる。依存性の一択だろ、一択だと思います。きっかけは人それぞれだから知らんけど。私は興味本位で始めて、しばらくは1日1本を吸ったり吸わなかったりというスーパーライトユーザーな時期が1年くらい続いた。んでもって秋田の免許合宿で仲良くなった人がスーパーヤニカスだったから、それに付き合う形で部屋でバカスカ吸ってみたら見事に依存した。今思うとこんなにダサいことはない。カス宇多田ヒカルの歌詞みたいだ、せめてかっこいい男の先輩に影響されるべきであって、二個下の女の子に喫煙習慣を根付かされるのは引きがなさすぎる。

「こんなもん吸わない方がいいよ」って、非喫煙者の人にアドバイスする喫煙者が多い。というかそういう風に答えてる人しか見たことがない。吸った方がいいよ、って答えてみるの面白いんじゃないか? 懇々と有用性や楽しさ、カッコ良さのようなものを客観的に論証していく人。良くないわ

・「片っ端から喫茶店」というYouTube
最近好きでよく観ている。ヒコロヒーと呂布カルマが出る回が好き。ヒコロヒーの飾らなさと煙草の吸い方、店員との接し方の上手さが良い。肩肘張らない自然さで、フランクだけど失礼じゃなく、なんというか粋だなって感じる。私がこういう評価をすること自体が粋じゃないのかもしれない。一人で生きていけそうな雰囲気の女性が好きだという色眼鏡込みだと思う。呂布カルマはなんか強そうなのに不幸な目に遭っているところが容易に想像できる不安定さが好きです。監禁とかされてみてほしい。

・芸能人が出ているコンテンツを観た時に、その特徴とキャスティングの理由を考えるようになった。他にどんな企画をすると面白いかとか、別の人なら誰がその企画に合うかみたいな、制作的な視点。それを教えられてるから当然は当然だけど。趣味などの好きなものを仕事にすると純粋に楽しめなくなるんじゃないか、って懸念は各所で聞かれるけど、少なくとも私は楽しめなくなることはないと思う。楽しみ方が増えるだけで、自分ならどうするかって思考実験的な方向にいけるのは単純に選択肢が増えるって意味でアドだと感じる。生活とシームレスに接続される仕事なんだろう、それでもってやる気スイッチ的なものを押すのが苦手な代わりに普段から取り留めもなく考えることができるタイプの人は大丈夫だと思う。発想とロジックが求められるが、発想は日常の中で接するものから出てくることが多いらしい、日常と連続したところに考えを至らせて、かたちを変えて面白いものにする。

私は多分物欲(というかお金がないとできないような体験とかが好き)がデカい方なので、金はバチバチに稼ぎたい。せっかく良い大学入ったんだから就活したら?もったいないよ? ということを親戚の連中などから言われる。自分の適性とか関心を色々考えた結果の選択なので……っていうことを小学生にもわかるようなすごくわかりやすい言葉で伝えたが、通じていなかった気がする。私がいちばん金稼げる仕事だと思うので選んだんだよ、っていう、そこまであけすけに考えを親戚に伝える胆力は無かった。私が会社員になる方がよっぽど勿体ないですよ、みたいな自信家らしいことも言えなかった。ギャンブルじゃなくてちゃんと見込みを持って選んだこととか、合理的に様々な要素を比較検討したこととか。世代を超えて人を説得するのは難しい。センスの仕事だよ? とか何を知ってるかわからん顔真っ赤な親戚のおっさんがご高説をポトポト垂れてきたこともあった。せっかく頭良いんだから……みたいな、まるで演劇のようなセリフ。あとは自分が若い頃どんなに苦労して会社内における現在の立場を築くに至ったか。それらはもはや私に対してではなく、周囲の親戚たちや、あるいは自分に対して発している言葉に聞こえた。適度適当適切に相槌を打ち、質問をして自己顕示欲を満たしてやって、けどこういう立ち回りってある意味で「普通」だな、って思った。多様化と分断は表裏一体で、溝を飛び越すような相互理解は必ずしもやらないといけないわけではない気がした。反論しようと思えばいくらでも喋れたけど、敢えて黙っておくか、という「大人」らしい振る舞い、これもたぶん「普通」で、そうか私は大人でいることが普通になってしまった年齢なのか、と気づいた。けどこれに気づけたのは大人の中でも偉い方なんじゃないか? いや大人は自分のことを「大人」だとは評さない…… 「大人」ってなんだ? 成人との違いは? 私のことを一面的な価値観にはめ込もうとしているこいつらは「大人」か? とか何とか考えてたらいつの間にか集まりは終わっていた。全部作り話です。