いつか

生きるうえで知らなくていいことは多い。そんなものは最初から目を背けて、自分とは関わり合いがないんだって言い聞かせることができる。けど知りたいのに知らないまま終わっていくかもしれない経験がそこには山のようにあって、たとえば海辺に暮らして誰かと蕩尽愛し合いながら老いていくことだったり、今のわたしが喋れないような言語を手繰りつつ世界の不平等に絶望しながら枯れていくことだったり。レールがある。見えないけれど確かにあって、そこから外れて、予想もつかない生を謳歌することはたぶん難しい。もちろん、今後の私の三十年に起こることは一切知らないけど、けど、だいたいこんなもんだろうなって予測くらいはつく。極限があるんだ。身近な人は少しづつ老いていくし誰か死ぬかもしれない。きっと日本にいて、日々の小さなことに神経を反応させながら、自分を納得させるようにそれなりに生きているんだと思う。タイムカプセルを作る価値なんてない。まるで昨日のように受け取れる気がする。誰かに憐憫しながら生きていたくはない。憐れむことはいつかの自分を見てしまうことかもしれなくて、だから弱い私は静かに世界から目を背けて自分にだけ向き合う。世界ってなんだ?自分以外のことを世界って呼んでいるんだとしたら、そんな可変する弱々しいものに身を浸しているのか。家族が欲しいとたまに思う。家族の幸せな在り方というのをほとんど知らないから、どんなもんだろうという好奇心がある。一方で悲観的に無理だろうという予測もあって、そもそも誰かと足並みを揃えて生きていくのってダルいし。ダルいってことにしておけば能力不足なことを隠せるから便利だよ。詩だ。君の悲しみに幾らかの値札をつけて、それでしばらく僕ら生きよう。数千年前もきっとそうやって弱い僕らは身を寄せあって、怖がりながら死んでいったんだと思う。時間は軋むような叫ぶような音を立てて過ぎていく。主観だけは嘘をつかない。製氷機の氷には砕けた薔薇の花が少しだけ入っている。生活に違和感が忍ぶ。影はどこにでもあって、けど目を逸らしているから気づけないフリに余念が無い。何回かその場で足踏みをしてみせてよ、ってどこかで聞いた声がする。繰り返し。神話の中にだけ存在する嘘みたいな愛。劣情だけが歴史の中で輝いている。誰しもが息をしているはずなんだけど、みんなどこかで絶望みたいな塊を拾ってどこかに消えていく。たまに拾えていない人も来るんだよね。拡散するような時間の中に身体が少しづつ引き伸ばされていって、弱いところから次第にちぎれて空間に溶けていく。本の中でだけ見たことがあるものたちが記憶に残らないくらいの速さで目の前を過ぎていく。何故か怖くなってきてそれを止めようとするけど、初めてのことだから何も分からずに、目の閉じ方さえも習っていないからわからない。だから仕方なく全てを見た。嫌なことばっかり目に映ったけどもう何も覚えていない。泣きそうになる。ちぎれていったからだがどこからかあつまってきて、けれどすこしだけもどっている。どこかわからないけどういているかんかくがある。みのまわりのすべてがうつくしくて、もはやなにがなにだかわからないんだけどすべてをあいせるとおもった。ないているのはずっとかわらない。そうしていくばくかのじかんがたって、もういちどうまれていまここにいる。