水槽

自分の体に違和感がある。不調の話じゃなく、実存として自分が在ることに対する疑わしい気持ち。鏡で自分の顔をふと、目的なく見る。1分くらい見続けていると、こういうやつが外歩いてるのか、と思う。それは何も自分の見た目に自信が無いとかそういう次元じゃなく、存在への驚きみたいな感覚だ。

この感覚が小学生の時からずっとあって、だからかはわからないが、他人を好きになることはほとんど、この人になりたいと他人に思うことと同義だった。女性性への憧れとか簡単な話じゃない。そうした要素も一部にはあるかもしれないけど、どちらかと言うと同性の先輩への憧れのような感情から無邪気さを引いたような感じがする。かっけえな、この人になりたい、という気持ち。書いてて気づいたけど、「この人みたいになりたい」じゃないんだね。まるきり取って代わろうとしてる。これは強くておぞましい願望だ。それで、そういう憧れてしまう相手ってだいたい長いこと一緒に居ると疲れてしまう。内省を常に求められるからだと思う、求められるつっても自分で勝手にやってるだけなんだけど。この人の精神性を吸収したいなとか思いながら喋ってたらかえって何もわかんない。

まあけど一緒に居て楽な相手も居るもんで、別にこいつにならなくてもいいけど何となく好ましいな、くらいの簡潔な感情。不可解なことに、そっちの楽な方が居る分には楽しいし、居ない時でも楽しい。相手からすりゃどうなのかわからんが。私は基本的に他人と一緒に過ごすのが苦手で、それは単なる私の能力不足でしかない。他人の感情を慮るのに根気と体力がいる。気遣いが無限に分岐してそれらを潰していきながら交渉するんだけど、心のどっかでは潰せなかった余りの選択肢がリフレインしていて、自分の能力不足を痛感しながら人と喋っている、そりゃ疲れるに決まっている。1人が好き、ってのも楽だから。失敗は1人で対峙した方が悲壮感がなくて良い。誰かが居たら失敗の衝撃に加えて恥までかくことになる。人間なので他人からの印象をずっと考えて生きている。だから他人は居ない方がいい。そういう拗らせもある、しかし楽な人もいて、よっぽど私が酷い状態じゃない限りはずっと一緒に居れる気がする。1人で勝手に楽しく生きてくれそうな人間が好きなんだろうな、つまるところだ。それは自分の責任逃れでもある。

冷静になって考えるとお互いにボコボコに苦しめ合うような相手、不経済でしかない。宿縁みたいなものかもしれない。空いた時間でまたずっと不経済をやっていたい。私はコミュ力を増やします。