棚卸し

思ったことをメモする習慣ができた。ある程度溜まったので放出したい。1週間分くらい?

 

・日常の狂気について

 

品川駅を歩いていると電光掲示板に伊東行きの電車の時刻が表示されていた。

「この後の予定全部ほっぽって静岡行くだけの金も時間もあるな」

と気づいてしまったが最後、それにばかり気を取られてしまった。もしかして、行こうと思えばほとんど日本全国どこにでも思いつきで今日中に行ける?となると途端に世界が怖くなる。だから考えないようにしている。Suicaオートチャージにしないのも同じような理由だ。周りの人も多分同じ観念を持っているのではないか、自分が自由であることに気づかないようにしている。自発的に自分が不自由であることを選ばせないと回らない社会があって、衝動を抱えながら生きているんじゃないか。

 

・花束みたいな恋をした、もう一度観たいんだけど精神的な体力が足りない

 

脚本として坂元裕二のやり方に興味があるから観ておきたい。1度目は映画館で観たんだけどそんとき眠くてよう考えずに観たし隣が泣く人だったから集中できなかったし。前と今では思想も知識も観る目的も全然違うから体験がどう変わるかにも興味がある。感性、日ごとに変容するものな気がする。「私だけが抱いている感情じゃないか」というのを多くの人に抱かせようと思ったら固有名詞や限定的文脈を衝突しない形で作中にバラつかせることが重要なんだと思うが、そういう散逸的な世界観を2時間持たせるやり方ってどんなんなんだろう。映画と小説の違いとか。視点がね、遠いよね、視点がね。

 

・煩悩を消したい

 

全ての欲求を消し去って、禅僧のような現世から超越した雰囲気を出したい。千日回峰行を2回達成した坊さんの動画観たことあるけど、なんかもう纏っているオーラが''他所''の感じだった。全くもって仏道には明るくないから多分正しい感想じゃないんだろうけど、普通に死にかけただけでは成しえないようなオーラ。自信なのか、超常体験をしたのか。

日頃生きていて自分の煩悩のせいで行動が規定される瞬間が多すぎることに辟易している。衣服も自己表現じゃない。他人に受容される''自己''というのを、拙い客観視を前提になんとか作り上げているだけだ。「他人に愛される前に他人をまず愛しなさいよ」ということをフロムがおおむね言っていた。これに対する感想としては「世の中って結構他人の存在を想定しないといけないんだな」ってことだった。けど他人と関わる上ではどうしても気に入られたいという欲求がでてくる。そして行動が自己本位的なものから離れて、だんだんと社会にアジャストされていく感覚がある。それが何となく嫌だと思う。独りが似合う人が好きで、わたしはそれに少しでも近づきたいと思う。しかしこれも、私と同じように独りの人間を好む人間から好まれたいという煩悩だ。

 

・綺麗に読書モチベが湧いた

4月に1日1冊のペースでミステリーを読んで食傷気味になってからは、ちまちまと興味あるところだけをかじるみたいな読み方をしていた。井上真偽『聖女の毒杯』おもしろい。森博嗣のときも思ったけど、ミステリーの楽しみ方(少なくとも私にとって)は、作中人物(探偵役)と一緒になって謎を考えるとか矛盾を探すとかじゃなく、異様なシチュエーションに放り込まれたキャラクターの言動を楽しむというキャラ物めいた感じの楽しみ方になっている。これはキャラクター消費ってやつなのか?ただ、井上真偽に関してはとりあえず3作読んだが、キャラクターの魅力を実はそこまで感じていない。戯画化されすぎたキャラクターたち(チャイニーズマフィアで頭脳明晰で腹黒い女、オッドアイ青髪超頭脳明晰でお金に弱い探偵、天才小学生探偵など)が持ってまわった口調で喧々諤々の議論をしまくるだけ。イマイチ乗れないとこがある。なんで読んでるのか、日本語が好きだからです。日常で出会わない語彙や漢文からの引用が痺れる。活字の良さはそこにある。他人(小説家)の語彙で展開される世界は普段の自分のそれとは全くもって異なるから、平たく言うと異文化交流の気持ちなのかもしれない。

 

・ストレス溜まったら本買って散財&積読するっていうのをやっていたらいつの間にかKindleに250冊あった。

 

確実に読み終わらない。フロムの『愛するということ』を扱ういい感じの読書会&議論が発生したので嬉しい。脚本の「家族」ってお題にも合うのでコスパがいい。小説じゃない本の読書、私にとっては、まず不足を認識してそれを補うために読む、という過程を踏むことでより良く吸収できるものだという気がする。それはそうと積読は確実に一生消えない。興味が更新される度に新しい本を買って、私の前に並ぶ本たちの順番待ちの列にその新しい本が割り込んでくるから。中島らも吉本ばなな、申し訳がない。多分本当に娯楽が消えるか、興味が更新されなくなった時に手をつけるんだと思う。それか、2度目の興味がそいつらに向けられる瞬間が日常に訪れるか。

 

・日記を書く人が増えて嬉しい

 

友達らで4~5人?インスタのストーリーに日記のスクショを貼る人が出た。私は先駆者だという自負があります。なんの意味もない。友達の文章を読むの楽しい。電話で双方向的に考えをやり取りすることはあるが、日記はその人が1人で考えを深めていく様子やどういった感性で日常を処理しているかがわかるから質的経験として全く異なる。日記を読むとその人が個人として生きていることがわかる、他者性なのか?ちなみにこの文章を書いている私は電車に乗っていて、斜め前に座っているショートカットの物憂げな女性が「難問数学パズル」という本をペン片手に読み解いているのを見て「いいなあ」となっています。

本当の日記

アイクリーム、新しい種類のを買ったら合わなくて腫れて、しかし確かに目元がパッチリした。使い続けるか悩ましいな…… パッと見で「アイスクリーム」だと思っていた人居そうだ。

昨晩(太陽出ていた)、洗濯物を干そうとして半分くらいを吊るしたところで唐突な眠気に襲われ、勝てず、「とりあえず仮眠してみるか」と1ミリたりとも合っていない理屈で寝て起きたら洗った布たちが皺だらけになっていた。柔軟剤が切れて必要量の半分しか入れられなかったのも大いに関係があると思う。一人暮らし、こういうのも気楽さとして前向きに捉えられる。家族の洗濯物をペキペキにしてしまったら反省文とか書かないといけない気がする。一人暮らしはいいぞ、ダルい時は夜ご飯はチキンナゲット15個でもいい。水を4L買って帰ってそれを一晩で飲み干してもいい。アイスを食べた後にアイスを食べてもいい。こんな自由なことはない。

カレーメシの容器に注意書きとして書かれていた「女子ウケしますように(合掌)」「お湯を注ぐだけ!王道だねぇ」ってのを見て、日清って企業風土的にずっと上滑りしてんじゃないかって思った。これを本当に面白いと思っている人が内部にいて、消費者の側もこれを好むのが多数派な社会なのであれば、私はなにもできないかもしれない。

これは私の(たぶん)変な趣味なんだけど、家から15分くらい歩くコンビニで辛いもの(蒙古タンメンなど)を買ってそれを食べながら家に帰るってのがある。家着く頃には全身ビッショ。住んでる場所は過疎のカスのベッドタウンなので誰にも会わないから安心。んで今日はカレーメシを食べたってことですね。歩行と食事を同時に(しかも辛いやつ)すると信じられないくらい汗かいて全てが終わる。とてもちいさな破滅願望。
まあデトックスだと思っている。肌綺麗になるし翌朝の目覚めもすこぶる良い。

同類だと思っている友達🐔に彼女ができかけていて、なんか焦って見た目を気にするようになってきた。とりあえず前髪がチラついて邪魔なのもあって、YouTubeでやり方観ながらセンター分けしてみたけどめちゃくちゃ面倒だった、なんか変にもなった、部屋着の女子みたいな前髪になった。あれを普段からやってる人、お洒落ポイント高すぎるな。髪の毛のケアはちゃんとやってるけど髪型に無頓着なの、逆にお洒落な人って印象になれないか?

脚本家って作品に社会通年を反映している一方で作品でそれを誘導、あるいは増大させている気がするな。増大の方が今は感覚として大きいかもしれない。「『花束みたいな恋をした』みたいなことしてるよね私たち」って言うことが可能なので、本当はそうでもないのに型に押し込めて認識される。

これって人間関係から人間を説明してるんだ、って視点でドラマ観たことないから基本がわかんね〜、そもそも自分の人間関係でさえもイマイチわかってない。私は他人にどう映っている? 書こう、と試行錯誤しはじめたここ数日で、胸の中にいろんなものが去来して雲散して霧消して、今はもうない。心の発達にはいいかもしれない。小中学生とかにやらせよう。読書感想文なんて書くより人間の機微がわかるようになる。

Vol.

・いま行きたい場所
鎌倉(''和''の空間を散歩したい)
荻窪(ギャンお洒落パフェの店に行きたい)
下北沢(秋用のジャケットが欲しい)

てかめっちゃ鉄道旅をしたい。友達が青春18きっぷ使って京都→仙台→盛岡→金沢→京都って旅行してて超楽しそうだった。私は突発的なイベント(非日常)が好きなので、たとえば「飛行機に乗る日」とか「普段使わない電車に長いこと乗っている時間」みたいな過ごし方はすこぶるテンションが上がる。やるとしたら冬だな切符の期間的に。2泊3日とかでひたすらに北上したい。こないだ買ったkindleの端末持っていって、時折外の風景を見ながら読書をする。これ絶対に1人がいいわ、どれだけ理想的な彼女や友達がいたとしてもこれは静かな時間の方が豊かになる。旅行先みたいな非日常的や場所性と五感の記憶が密接に結びつくっていう体験は楽しい。引っ越した最初の月に朝5時に起きて始発で横浜駅に行ってレンタサイクルで山下公園やら中華街やらを巡って自分が福岡に居ないことを突如実感して、浴室が畳張りの訳分からん寂れた銭湯に入ってさっぱりした体でチャリ漕ぎながら聴いたくるりの「琥珀色の街、上海蟹の朝」がめちゃくちゃ良かった。道路交通法違反してたな。


日記が長大化しそうな気配がある。暗算みたいなことができなくなってて、考えを整理する時には「一旦書くか……」となりがち。んでどうせだから人様に見せるか、となる。そこはなんでだよ。毎日600字程度にまとめられていたのが粗雑に広がるだけなのでよくないのかも。notaってメモアプリに思いついたことをネタでも企画でも書くようにしていて、日記も一日の中でちょこちょこ見出しだけ書いている。


ジャスミンティー飲むな、意味ないんだから

みたいな感じの見出し。そう、意味ないんだよ、これ。ほとんど味しないから。水でいい。緑と烏龍の違いがわからん。変わり者だからこれならわかるかもってジャスミンティー飲んだけどただのティーだった。何となく爽やかな風が吹いただけ。

・帰宅後窓際のソファに座ると汗だくになって風呂に駆け込む

一旦ソファに座るなよって話だなこれは。脱衣所に荷物置いてそのまま風呂入れば解決する。にしても汗ヤバすぎ、外歩いてるときは風が吹くからなのか然程なんだが、帰宅した瞬間に家の暖かい空気に迎え入れられて足の裏とかからも汗が出る。水2Lを毎日2本買っている。


・自分ならその文章をどう書くかという視点で読む

これなんだ? あ〜高階秀爾の文章に感動して自分もこういう格式高く書きたいって思ったのか。

『近代の巨匠たちのなかで、モネほど光を愛し、光に憧れた画家はいない。けぶるような朝靄のなかにオレンジ色の輝きを滴らせる海の上の日の出、夏の草原に燃え立つ陽光の影、微風を受けて無数の銀鈴のように太陽のきらめきを反射させるポプラ並木、大聖堂の冷たい石の建物を幻のように包みこんでしまう夕暮の光、セーヌ河の水面に乱舞する光、積藁の奥深くはいりこんでいく光、睡蓮の花弁に息づく光──生涯を通じて、モネは千変万化する光を執拗に追い続けた。英仏海峡に面した北フランスの港ル・アーヴルの町で、ブーダンの導きによって画家になろうと決心して以来、ほとんど七十年間にわたるモネの画業は、その大部分が光に捧げられた讃歌と言ってよい。』(名画を見る眼IIより(雑引用))

文章表現の力が優れていたら「日の出」が輝きを滴らせるし、「影」が燃え立つし、「光」は乱舞だってする。輝きが滴って見えるような感受性があったのか、あるいは単に「照ってんね」くらいのを文章にする上で下心から書いたのかはどうでもよくて、実際問題としてこんだけの表現力あるのかっこよ〜〜となった。『名画を見る眼』、ほぼ間違いなく過去に読んだ文章の中でも一番と言っていい満足度の高さなので積極的に人に薦めたい、そんな高尚な友達はいません。


・完全に早起きのコツわかった、念じることだ

起きてすぐこれメモったのかわいいね。結局は起床も精神論。寝る前の自分をひたすらに脅す。(8時8時8時8時……)って刷り込む。そうすると起きられる。ただ私の場合厄介なのが、起きようと念じた時間の約1.5時間前に目が覚める。今日は朝5時に寝て11時に起きたかったのに、9時半に目が覚めた。そんなことされると自分との心理戦が発生してしまう。「これはマジの11時だぞ」って念を押すか、「あ〜〜13時に起きたいな」と虚勢を張るか。そんなことしたくないよ

 

・コミュニケーションゲーム(想定した通りの反応が来ると嬉しい)

これは昼過ぎに人と喋る前に相手が何を言うかを何通りか想定して頭の中で台本書いてから喋るってのをやったときに思ったこと。この人ならこう言いそうだな、って推測して発話して予想通りの返答が返ってきたらなんか気持ちいい。人としてなんか窮屈だからもうやらない。本当の楽しさは予測不可能性みたいなとこにある気がするし。人に話しかけたときの「事態が動き出した」感、カロリー高いエンタメって感覚がある。何も考えずに喋れる高校の友達らも大事。


・味覚7割戻った

ただし嗅覚は除く。香水の匂いすらしない。嗅覚依存の人生だったんだなこれまで。他の飲み物の味はする(いちごミルク)のに茶の区別がつかん、シンプルに味音痴の可能性ある。ちゃんぽんとか酸っぱけりゃ酸っぱいだけ美味いんだよな。味覚が消失しくさってからは食物を味以外のとこできちんと味わおうとするようになったな。食感とか。食感だけかも。コーヒーはなんかザラってしてて舌に残る。


東浩紀の訂正可能性の哲学買いたい

評判がいい(批評界隈で)。読むのめっちゃ大変そうだな、時事的なテーマが揃えられてるっぽいから知識も多分足りないし時間も無い。kindleに200冊くらい積んでるからまずそっち読めやという話である。本をたくさん読むコツは並行することだと思う。とりあえず着手して輪郭だけ知っておくと読みたい瞬間が生活の中に訪れやすい。誰だっけな、なんか偉そうな人が「人間性は読書と旅と人との会話でしか養われない」みたいなことを言ってて、さすがに限定するには激しすぎるがおおむねわかる気がする。「自分の殻に閉じこもるな」って主張なんだろうな。


・終わり方わかんなくなったので最近書いたダウ90000っぽいネタを投下して終わる


蓮見 吉原 中島 道上

・概要

高校からの仲良し女子4人で定期的に開催される女子会。就職後も毎月第2金曜日に集まることになっていた。店選びは持ち回り、トークテーマは「男の話以外」(なんやかんやで話してる)。LINEのグループ名は「あつまろ!」 しかしその日の女子会には見知らぬ男が1人居て……

・設定(内容?やりたいこと?)

女子会に男が1人、中島の友達の男が入っている。彼氏って訳でもなさそう。

その男、女性あるあるみたいなのに積極的にノリにくるけどたまに的外れてる「女性としての役割を全うすべきか、男目線の意見を提供すべきか迷ってるな」(エロい話を受けて)→「今コイツギリギリで女やってんだから」「他の話にもう乗れないと判断して少年漫画の話に持ち込もうとしてるだろ」「ダーマペンの知識どこで仕入れたんだこの男」「途中参加の女男に対抗意識燃やしてるしできるだけ文脈わからないように散らしてる」「頑張れ、市民権はお前にある」(第三者視点でもいい)

・女子の会話、短文での応酬がすごい
えっめっちゃ面白くない?って感情の確認をしてくる(場の統一感?)
えっ?!で1回場の視線を自分に集めることも厭わないし集めたのに弱いこと言う
男居ないから各々勝手に飲み物頼むシステムになってる
途中注文の食べ物はプレゼンと感情に訴えかけるゲーム
初めて行く店では外したくないから1番人気を頼む
「お手洗い長くない?笑」「私ら大学の時からずっとこの話してんじゃん笑」「会社でさー、なんか40半ばくらいの課長がいて、そいついちいち『クーラーの温度あげようか?(微モノマネ)』とか聞いてくんの。勝手にあげとけよって」「ある、なんか気を遣えますアピールの人ね。わたしそれ系で言うとおばさん集団から嫌われてて」「いやどれ系笑 脈絡の無さね芽衣子の」「得意技のね」「単に芽衣子がおばさんから嫌われてるのがバレただけじゃんしんど」→「部長はイケメンなんだけど『コーヒーついでに買ってこようか?』って言ってくれるんだよね、気を遣える男性本当有難い存在」「わかる〜見習えよって感じだわ」

・部長に不倫に誘われた?というエピソード 女子会には急にシリアスになる時間がある気がする 「結局なんでも話せるのここだけだし、楽すぎてムカついてくるまであるね」「照れんなって」
2個くらい下の世代で流行ってるらしいBeRealをとりあえず入れてるのが2人くらいいる。1回だけ使ったけど「何したいかわからんわ」となって使ってなかった 今回とりあえず撮るけど結局インスタの白ニキビに落ち着く
23歳くらいの4人 彼氏持ちは1人だけど暗黙の了解としてあんまり話には出さない まだ道上が1年前の失恋から癒えてないので(就活で会えない時間が続いた)→忙しいとかだったらわかるよ? そりゃ私だってあの時面接続いて疲れたって日あったし。でも、そういう感じじゃなかった、この人わたしに興味無いんだなって思っちゃったらなんかもう冷めるよね、同意挟みつつの蛙化じゃん笑っていう知ってる最近の言葉とりあえず言うっていうノリ Z世代とか 新しい学校のリーダーズがフニャンフニャンやってた話で盛り上がるかと思いきやそんなに知らないからぼちぼち

ジンメン

「人面魚っておるやんか」

 

「おるなぁ」

 

「アレ、ちっさい頃に家で飼っとったんよ」

 

「ペットの話なん?」

 

「あ、いや家族として」

 

「じゃあ飼うとか言わんとってほしいなぁ」

 

「そんで中学生の頃に死んだんよ」

 

「死に顔はどっちやったん」

 

「「人(じん)」として死んでったわ」

 

「切り替え式の人面魚も今どきようおらんらしいな」

 

「らしいな、時代って感じする。ウチで飼っとったんが最後やったんかもな」

 

「ラスト人面魚」

 

「ラスト人面魚」

 

「ラスト人面魚で思い出したんやけど、皇帝になってみたいんよな」

 

ラストエンペラー絡みでな」

 

「皇帝になるとしたら第3代が良いなぁって思ってる」

 

「2がやらかすから?」

 

「そう、話早くて助かるわ」

 

「ギャップで優秀だと後世に語り継がれがちやから楽よな」

 

「そう、そいつ多分お父さんとかなんやけど、お父さんの作った穴を埋めていくだけの簡単なお仕事やん」

 

「ってことは自分が生まれる前の段階でなんとか父親を無能に育て上げる必要があるな」

 

「そうなんよ、初代への働きかけが必要で」

 

「輪廻転生な話やな。前代の自分が何とかしてくれるかどうか勝負って感じ こっちから働きかけるのムズそうやなあ 練習しとく?」

 

「やってみよ。じゃあ私が輪廻やるから」

 

「私が転生?そう分かれるの珍しいけどな」

 

「分け方苦手なんよ、「人面」と「魚」って分けてまうし」

 

「実質的に「人」と「魚」を創造しただけやん」

 

「輪廻転生よりそっちが気になるわ、天地創造入門で習わんかったん学校で」

 

「やっとったんやろうけど覚えてないなぁ、ゴリゴリの堕天期長かったから」

 

「堕天期めっちゃヤバかったんやろ?ほらパルテノンの」

 

「あ〜そうやな、パルテノン神殿の天井全部壊したんはやりすぎた」

 

パルテノン神殿、写真見る度に青空教室感パないからな」

 

「あれくっそ怒られてしばらくワイン抜きやったわ、血で賄ったけど」

 

「晩餐入門はちゃんと受けとったんかい」

 

「教室でみんなでパン食いまくれるのアレだけやからな、楽しかったわ」

 

「うちの先生毎回「これが最後ですよ、最後ですからね」って擦ってきてうっとおしかったわ」

 

「自分らがもし最後の晩餐ってなると何食いたいかって話するよな」

 

「したわ、私は先生に聞かれた時はハンバーグカレーって答えた」

 

「欲深い。んなもんさっぱり目な飯言っといたらセンス良い感じに収まるんやから」

 

「何答えたん君は」

 

「さっぱりすだちうどん」

 

「さっぱりって言うてしまっとるやん、しょーもな。食べ物として機能してるの唯一うどんやであんなん、「うどん」って言っとけよ」

 

 

 

 

 

 

 

嘘の日記

丁寧なココアを作ってしまった。それもとびきり濃厚な。ジャン=ポール・エヴァンのココアパウダーを買っていて、豆乳と牛乳でそれを溶いて最後に蜂蜜をひとさじ入れた。今はそれを飲みながら日記を書いている。甘い、たぶんあと5口だ……。無くならないで……。

今日は昼前に目が覚めて思いつきで江ノ島に行った。季節性に反抗したかったのだきっと。夏のバカ暑い時に江ノ島に行くカップルとは一線を画してやったぞ、と思いつつ行くと普通に男女ペアしか居なかった。きみらの旬は夏だったろ、今来るんじゃないよ。イカ焼き美味しかったな、美味しさの手柄が全てイカにある味。カップルは食欲減退色をしたソフトクリームを食べていた。かわいそうに、とイカと囁きあった。

慣れない外出はするもんじゃないな、帰宅後お風呂で寝てしまってカピカピに。アーココアが無くなる、もう飲まないぞ……せめて髪の毛だけは守ってやりたくてナイトキャップを買った、嘘だ。足にもやさしくしてやりたいから着圧ソックスをもう2年履いている。着けるのももう慣れっこで、スッってやってパンッ!ってやって、瞬殺だ。

人と関わるのは大変だな、と、思う。気が合う人との予定なら喜んで立てることができるけど、親密度60くらいの人との予定は行かない理由から探してしまう。みんなして無理にカフェとか美術館とか行かなくていいのに。私はずっと家でゲームをしていたい。仲のいい女の子はそれを許してくれる。4時間くらい格闘系のゲームをして、当番制でお昼ご飯と夕ご飯を作るっていうのを続けている。気質が合う人は貴重ですね。そうでもない人と遊ぶ予定の日が近づいてくると気持ちが鬱屈としてしまう。宣告の日が近づいてくるようで、その予定を立てた日はまだ楽しみに思う気持ちがあったはずなのに、当日体調とか崩れていいなって思ってしまう。ダメですね……。

高校生の時、唐突に学校に行くのとか無理になった日があって、降りるはずの駅を無視してそのまま海に行った。着替えもなにも持ってきていないのに足だけ海に浸して、上がってからはさっきまで海だった自分の足を不思議に見た記憶がある。境目なんてどこにもない。さほど好きでもないしらす丼を食べた。しらす丼はそれを食べているときに倫理観とか人間とはみたいな考えを強制してくる。さっきまで私も海だったから許して、だなんてなんの言い訳にもなっていないことを思いながら、多めに醤油をかけた。

そうだ、ヘッドホンを買いました。BOSEノイズキャンセリングが強いやつ、やったね✌️ 誰に見せたいでもない日記をこうやって書いている時、元々静かな部屋をもっと静かにしたくてヘッドホンが欲しかった。今はまだ届いていないけれど、きっと愛着を持てると思う。ココア、結局もう1杯いれてしまった……私は愚かだ。

 

日記を書いている時、どこかで同じようにいま文章を書いている誰かをおもう。交換日記がしたいわけでもない。ただ、その人が振り返る一日が幸福であったことを祈るような気持ちがあるだけだ。

精神的土足で来て

パンッ  クルクルッ

\ひき肉です/

どうもひき肉です。私がちょうどハマりだした時にダウ90000の吉原さんがモノマネしてて嬉しくなりました。次のその次くらいの世代コムドットって感じ、知らんけど。 

 

ここ2.3日、原因不明の高熱と全身の痛みでほぼ何もできなかった。本読もうにも体起こしているのがしんどいからずっとラジオを聴いていた。私の老後ってこんななのかもな、嫌かもな。 

 

体調が悪い時はなにか連動しているのかほとんど悪夢しか見ない。どうせなのでそれをきっかけに世にもっぽいプロットを考えた。

 

・加速
仕事帰り、家に帰るために終電に乗っていたら突然つんざくようなメロディ。その後すぐに合成音声で「加速します、おつかまりください」というアナウンスが流れる。何事かと思い周りの乗客を見渡そうとすると、誰も居ない。さっきまでは椅子がいっぱいになる程度には居たはずだ、と不審に思った直後に体が進行方向と逆に大きく傾き、椅子に寝転ぶ形になってしまう。そのまま体を起こすこともつらく感じるということは加速し続けているようだ。アナウンスが再度流れる。
「だから言ったのに」
倒れながら見る外の景色は流れる線としか認識できない。アナウンスは次々に滅茶苦茶なことをほざいている。加速する、加速する、加速する……

(電車が加速しつづけたら怖いなって思ってたらドンピシャの夢だったから怖かった 夢なのに体感もあったしやめてほしい)

・無限期講習
塾で働いていた。17時が最初の授業で最後の授業は21時20分に終わる、はずだった。最後のコマが終わった後、即座に身体に妙な感覚が走って、外が明るいことに気がつく。17時だった。まさかと思ってスマートフォンで確認する、やはり1日進んでいた。辺りを見渡しても周囲の人間には何も変わったところがない。生徒が待っていると社員に声をかけられる。理解は追いつかないが、とりあえずそちらにいかないといけない……

(説明が長くなりそうだからぶちぎった 塾で過ごす17時から21時が無限に続くっていう世にもっぽい話です なぜか西暦は2500年くらいになってるしそれなのに共通テストは続いてて第481回とかになってる 塾外のことは誰に聞いてもうかがい知れない ヤケになって教え方とか冒険したりする 黒幕もクソも無くて、ただ続くだけの日々)

 

悪夢って脈絡がないのが良い、怖い。映画やらと違って1人で請け負う必要があるのも怖さを増長していると思う。怖くなってきたのでホラーは終わりです。

 

人と話すのも関わるのも好きだから積極的にコミュニケーションを取りたいんだけど、人見知りと臆病さのせいでそれが叶わない。失敗が怖いんだろうな。客観的な立場から私の振る舞いに評価・改善案を出してくれる人がいてほしい。既に居るには居るけど、全員にそうであって欲しいレベルでダメ出ししてくれる人を求めている。「フィラーが多いな」「たとえ話がクリティカルじゃない」「話してるとき目線どこに向けてるの?」みたいなレベルでも全然有難いし傷つかない(きっと)のでどんどんダメ出しをしてください。ジャンルも問わない。広義のコミュニケーション巧者になりたい。自分の振る舞いに自信が持てれば自然と積極性も身につくと思う。

 

高熱と悪夢で本当に地獄のような日々を過ごしたんだけど、なんかいい夢も見た。意味わかんないことを書くが「抽象的なエロい人」みたいなのが出てきたんだよな。抽象的ってのは顔も声も何なら体型もわかんない感じ。じゃあなんでエロいことはわかるかと言うとそうだという記憶だけが残されているからだ。書いてても意味わかんないな。冒頭にもチラっと名前出したけど吉原に似ていた気がする……骨スト理論値の色気の権化だと思っている。なんかやだなこういう話題で締めくくるの、しょーもなさが露呈する。いいや、熱のせいです。あと酔っ払ってもいる。無理やり書かされたし、嘘もつかれたし、終電もなかったので仕方がない。

So Long, and Thanks for All the Fish

英語のタイトルをつけるのが悪かどうかは今度話そう。ダグラス・アダムスの『さようなら、いままで魚をありがとう』というSFの英題です。逆だ、日本語訳が後なのでこれが本当の名前だ。難解すぎて30ページくらいで挫折した。なんとなく日本語題が文としてかっこいいから教養ぶった人間に引用されがちだと知り合いの英文学者が言っていました。本題に入ります。

 

 

 

詩と短歌について、それらは書いて人に見せることが超超超恥ずかしい。見せられないのが9.9割だと思う。理由は「内面」すぎるから。書く時のモチベーションとしては単純で、自分の内側にあった感情や観念がある程度の浮力を持ったと思ったらそれをことばにしてどんなものが出てくるか見てみたい、というモチベ。作品を読むと自分も作りたいと感じる。排泄に似ているな。イン/アウトプットは表裏一体。何にせよ、作品に接するとそれを自分なりに噛み砕いて出したくなるので、時間が本当にないと思ったら短歌や俳句に逃げるようにしている、短いから。最近両方とも読んでるが夏バテした心が他人の感性をよく吸うのかすごく染みる。

ってことで以下は好きな短歌や俳句と感情ギャン出しの私の話を書く。

岡本真帆の短歌は太陽のような明るさで、さらには''女子''すぎて頭が痛くなる。けど不思議と嫌な感じは全くしなくて、この人の世界への向き合い方本当に好きだなって素直に思える。

・ありえないくらい眩しく笑うから好きのかわりに夏だと言った

・愛だった もしも私が神ならばいますぐここを春に変えたい

・ポニーテールをキャップの穴に通すときわたしも帽子もしっぽも嬉しい

自分とのギャップのデカさに殴られてしまう。こういうのを書こうとして人格をトレースしようとするとたぶん副作用で右耳が聞こえなくなるんだろうな、ってくらい遠い。

そう、いま触れたが私にとっての短歌/詩の面白さは、自分と違う人の感性を飲み込めることだ。初谷むいのメンヘラ的な恋愛観、あるいはかわいくありたいという理想、しかし直面する生活のリアルさを見つめる感性が好き 大森靖子らしさ

・夜汽車 ふみきりのような温もりで だめって言って抱きしめている

・どこででも生きてはゆける 地域のゴミ袋を買えば愛してるスペシャ


分人主義のようなキャラ論になるけど、わたしらは他人と接する時に場面に応じた人格を用意する。態度を変えているって言ってもいいんだろうけど、それは自然な振る舞いで、なんら悪いことではないと信じたい。心とは多面体であって、たとえば親の前で選択している面を友達の前で表示してしまうとままならなくなってしまう感覚。そんでこの面たちの間には使用頻度に差が生まれる。初谷むいみたいなメンヘラの面も、岡本真帆みたいな太陽ガールみたいな面も、私は少なからず持っているんだと思う。ただそれらは面積が小さいし表示する場がないだけであって、実際心情として短歌に共感ができる以上、自分にもそういう感情の動き方があるってことだと思う。存在しない記憶みたいな話だ。これも短歌の楽しさで、自分の内面を探索できるのが楽しい。自分こんな感情の動きするんだ、っていう、ある種の自己陶酔とも呼べそうな動き。

 

世界との接し方、世界への目の向け方が変わるのも短歌の力だと思う。島楓果という歌人がいて、転換的な観察と想像の力が高すぎてうらやましい。個人的にはいちばんすごいと感じる。 

・空っぽのコップが倒れたテーブルにコップの中の空気は満ちる

・鳥よけのためにぶらさげられているCDが聴く鳥の鳴き声

・さっきまで海の一部分だった両手を洗う薬用ミューズ

・渦巻きに火をつけたときから生の入れ物に注ぎ込まれてゆく死

 

コップが倒れたからといって「中の空気が零れたな」とか思わ(え)ないし、CDが主体として音を聴くという発想もない、海に浸かっていた手が海の一部分だったこともなければ、死を 「注ぎ込まれてゆく」流体的なものだと感じたこともない。人間の感覚を口語で詠むものが多い現代短歌は、視点や切り取りのアイデアの珍しさで個性を出す方向に傾いている。それは過去の累積からどうズラすかという発想で、その意味ではお笑いにも近い傾向だ。青松輝が「短歌をやると人生がちょっと変わる」って言ったけど、これは正しいと思う。ただ、「人生変えてくれるのかな」って下心を持って求める人にはなんら響かないと思う。島楓果の好きなのあとふたつ。

・無風でもわたしは揺れて揺らがないはずのものなどなくしてしまう

・罪を知り海を知らないあの場所でかすかに揺れている水たまり

日常の中のゆらぎ、世界と認識と言語、現実と想像を見極めながらも飛び越えていく感性、そのどれもが単純に美しくて、私自身の日々の小さな棘は昇華される(あるいは封じられる)ようにしてどこかに行く。

 

短歌に比べて、俳句は風景を詠むものが多い。飛躍するのは感情じゃなくて風景であることが多い。解釈するんじゃなくて淡々と頭の中に映すイメージ、写真集のように。読む人はその写真を美術館のように静かに楽しむ。小川楓子って人が好きで、特にこの四つ

・開けられぬ雨の包みを木犀を

・わが産みし鯨と思ふまで青む

・たふれたる樹は水のなか夏至近し

・ありつたけの夏野菜はてしなくわたし

「この短歌どういうこと?」って聞かれても何となく自分なりの解釈みたいなのは示すことができるけど、俳句になるとそうはいかないものが増える。風景の美しさであって、それは言語化すると途端に味がしなくなると思うので。ただ、ジブリの背景美術のような世界観の中に成立する淡い風景が綺麗で、これも非日常を形成する詩の面白みだと感じる。

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なにかに、あるいはだれかに想いを馳せて感傷的になるのが好き。修二と彰にいちばん詳しいから教室の真ん中に居ることができた子は、流行り廃りについてきっと誰よりも早く理解するだろう。自分に意見を求めてきていたあの子はいつの間にか見た目を気にするようになって、知らないコミュニティの中でまた別の人に意見を求めている。そっちには乗れないや、っていうのが何年か続いた。私以外の人は私以外の人と私が知らない言語で喋っている。


たとえば、友を見送る人の振る手に光があたっていること(あるいはその薬指に光る指輪がくすんでいること)

たとえば、ねむりから醒めたら目の前に好きな人がいること(あるいはその人がいま何かを言い出そうとしていること)

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誰とでも生きていける確信は地域のゴミ袋が連れてきてくれる。たぶん生活をやれるんだねって誰かと笑いあう。描かれた世界と同じような世界に現実の私が暮らす。どれだけむかつくことがあっても、私にはあなたが知らない世界が見えているからどうだっていい。ありきたりな日常がすべて作品になる。

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永遠の栄華を敬虔に祈れとサバトは言った。私たちが育った街は目下に、ただ泣きながら燃えていた。街を壊さんと揺れ上る炎は、幼い頃に太陽を描いた絵の具の赤なんかではなく黒黒としている。感情が奔流となって胸に押し寄せる、その感情に向き合う時間すらも無いのだ、ということを残った心の少しで考える。祈り、それは力の及ばない対象に乞う心だ。せめて一万年後のこの地に割れんばかりの喝采を、そして、墓標にひとひらの詩を。

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