夏は憂鬱の鬱

夏と冬なら夏の方が嫌いだ。汗をかいた感覚が嫌だとか、気だるげな感覚に襲われてしまうだとか、そういったことよりも、周囲の環境と自分との関係のまるっきりが変わってしまうのが嫌いだからだ。

自分と他人の境界がぼんやりとする印象が夏にある。自分が空気に溶けて少しずつ流れ出していくような感覚。流れて無くなった部分を、同じように溶けた他人が侵食してくるような感覚。本質的には変わらない連続的な1年の移り変わりに、気温だけじゃない意味付けを試みようと浮かれる人々が私の中に入り込んでくる。

冬はそうじゃない。身体は縮こまり、精神は内向的になる。そうして人は非活動的になり、空気は大人びた感覚を含むようになる。そういった、冬に訪れる世の中の雰囲気全てが、夏のそれよりも心地よく思える。

夏が嫌いだ。夏に浮かれる人が嫌いだ。他力本願で、自分の才能をいつか誰かが見出してくれると願っている人が嫌いだ。自分の周りの環境を、自分の不機嫌によってコントロールしようとする人が嫌いだ。

今、自分が将来何をしたいのかがわからなくなってしまった。こうやって文章を書いている21歳の私だって、高校生の時からしたら「21歳の時に何をやっているかわからない」ものだったし、どうにかなるのだろうとは思っているけど、それでも今だけに目を向けると毎日の気分は暗いことの方が多いし、気持ちの浮き沈みは激しい。

小さい頃、世間は一様に優しかった。小学生の頃、親に連れられて行ったライブハウスのバーカウンターで、退屈を潰すために宿題の漢字ドリルをしていたら周囲の大人は「将来有望だ」とか言って、頭が良い子だと私を評した。大人は頭が良い子には優しいから、自分の周りには優しい大人しかいなかった。そういったような優しい大人はみんな私のことを褒め、「頭が良い」私はいつしか勉強方面でない評価をも掴み取ろうとし始めた。読書感想文で一風変わった書き出しから始めようとしたり、小説を書く授業で地の文無しでセリフだけで構成したり、センスの良さを大人にわかりやすい形で発露しようとしていた。

思春期と反抗期はそうした精神の向きを、内向的なものに変えた気がする。大人に迎合しにいく周囲の一部の友人から距離を取りたがり、ひねくれた事を言い始め、しかしセンスの良さのようなものは変わらずに持ちたがっていた。いつかどこかで誰か才能がある人が自分のことを見つけてくれて、出る杭になって、やっぱりアイツは他とは違ったんだ、って言われる気がしていた。

しんどいな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜って書きながらも思ってるし、歩いてる時も思うし、しんどいなって思ってる時以外はしんどいなって思うし、茨の道なんて歩かない方がいいに決まっている。消費した日々を取り返すように熱を溜めるしかないのもわかっている。自分が今まで冷ややかな目線を向けてきた、放熱する生活を送っていただけの人達が実は人生を上手くこなしていることもわかってきた。夏が来る。否が応にも季節は廻り、私はまもなくまた年を取り、自分を置いて皆が大人になっていくのを待たないようにしないといけない。憂鬱だ。