事態はやはり深刻で

「この中にお医者様はいらっしゃいませんか!」

 

若い女性の叫びが機内に響き渡る。1時間前に成田空港を発ち、韓国のソウルに向かう機内のことだった。

 

ドラマや映画によく見られるシチュエーションである。もはやあるあるすぎて実在することの方がありえないとまで思っていた。不安そうな顔で座席をキョロキョロと見渡す客室乗務員の女性の顔にも、ベタなことを言ってしまったという恥ずかしさが張り付いているようだった。

 

気が気じゃない、それは機内前方に倒れているであろう病人のことを思ってのことではない。自分が医者であることがバレたらどうしよう、という不安からだった。もう1時間もすれば目的地に着く。現地では片付けなければならない仕事が多くあるため、こうした無駄なことには骨を折りたくない。医者としての職業倫理? あるにはあるが、しかし今は自分の仕事の方が大切だ。なにしろ、明日は大事な学会がある。そのために私はいま苦手な飛行機に乗り、ひと時の現実逃避として映画を観ていたのだ。

 

「お医者様は…」

 

客室乗務員の女性が悲痛そうな声で繰り返す。消え入るような声だ。多少心は痛むが…と思っていると、斜め前方に居た1人の男性がすくっと立ち上がり、客室乗務員の元までゆっくりと歩いていった。

 

「医者です。患者はどういった状態ですか?」

 

一躍その男性は機内の注目の的になった。起きている客のほとんど全視線が彼に注がれている。

 

「…!ありがとうございます!実はお客様が吐き気を訴えられた直後に突然倒れて、現在客室乗務員の控え室にて横になっているんです。」

 

「そうですか、わかりました。行きましょう。医療器具はどのくらい有ります?」

 

男性は上等そうに見える背広を自分の座席に置くと、白いシャツを腕まくりして機内前方に向かっていった。その背中はまさしくヒーローであった。私も行けばよかったかな… いや、目の前のことに囚われてはいけない。あのヒーロー感は羨ましくはあるが、今は自分の仕事のために休んでおくことが先決だ。そう言い聞かせてまたイヤホンを着ける。

 

 

それから5分ほどが経った、先程の若い客室乗務員が控え室から出てきたかと思うと、こう言った。

 

「この中にお医者様はいらっしゃいませんか!」

 

何事だろうか、先の男性一人では対処しきれない事態なのか? 見ると先程よりも顔には焦りの色が強い。さて、どうしたものか、今度こそ名乗り出るか…? そう思っていると、私の後方で席を立つ音が聞こえた。それも複数。

 

「「「「「「医者です」」」」」」

 

7人居た。めっちゃ医者居る、そんなに大きい機体じゃないのにこれで計8人医者が控え室に吸い込まれていった。やはり私と同じ心の動きをしていたのか、後発の7人の男性は先発の男性よろしく背広を脱いで、いかにも仕事に向かうというオーラを出しながら控え室に向かっていった。多すぎたからか少し詰まりながら向かった。

 

 

今度は1分も経たなかった。またもや客室乗務員の女性が控え室から出てきた。

 

「この中に…整形外科以外のお医者様はいらっしゃいませんか!」

 

合点がいった。これまでの8人はすべて整形外科の医者だったのか。いやなぜあんなに自信満々に向かったんだ。確かに簡単な処置と指示くらいなら専門外の分野でも勿論口は出せるが、格好つけようとしていただろ8人とも。特に後半の7人、そのまま座っててよかったのでは。

 

しかし事態はそこまで深刻には思えなかった。なにしろ控え室には(少なくともこの場では)役に立たないとは言え医者が既に8人も居る。8人寄れば文殊の知恵が2と3分の2はできるのだ。なんとかなるだろう。なんなら彼らに触発された別の医者(当然ながら内科であるべき)が立ち上がるかもしれない。

 

そう思い、私がアイマスクを座席の前ポケットから取り出した矢先、座席を立つ音が聞こえた。後方、そして1人。


控え室に向かっていくその人物は後ろ姿にもかなり年配であることがわかり、その頭髪は白とも金とも判断がつかない色をしていた。控え室の目前まで行くと、隣の席に残してきたと思われる人物に手を振り、控え室に吸い込まれていった。

 

高須克弥院長、その人だった。

 

整形外科じゃないか。なんなら日本で1番整形外科だ、権化といっていい。フリーメイソン整形外科。ってことは隣の席に残してきたの西原理恵子だろ。

1分も経たなかった。案の定、やはり客室乗務員の女性がまた別の医者を探しに声をあげている。なんで行ったんだ。人助け精神強いんだからなんなら1番先に行くべきまであっただろ。

 

この珍道中とも呼べる事態を見守っていたい気持ちはあるが、そろそろ寝ることにしたい。明日にソウルで開かれる整形美容国際学会の発表のために私は向かっているのだ。耳栓をつける。まさか父親も同じ飛行機に乗っていたとは。