帰省

自分には、親の顔色を窺う癖がある。というのも、母親が癇癪持ちで、父親と母親が喧嘩した夜などには母親は泣いて錯乱し、台所に蹲り、右手に包丁を握り、それを自身の左手首に押し当てているという光景に幾度となく遭遇してきたからだ。

 

私が小学校三年生の時、いつものように父親と喧嘩した母親は、日頃から服用していたらしい睡眠薬を10日分飲んだ。私が異変に気づいた時に見たのは、トイレの床に仰向けに倒れて口からは泡を吹いている母親と、それをなんとも怠そうに起こそうとしている父親の姿だった。

睡眠薬を大量に飲んだっぽい」

と他人事として言う父親の態度に、当時小学生だった私は言いようがない恐さを覚えた。私は、早く救急車を呼ぼうと言ったが、しかしなぜか父親は渋った。母親が死ぬかもしれない、という不安と恐怖に駆られた私があまりに泣きじゃくるので、父親も最後は観念して救急車を呼んでくれた。救急車が来て、私も一緒に乗って病院に行き、母親はそのまま入院した。次の日の学校のために、私だけタクシーで夜中の1時に帰宅させられたが、そんな事態の後の精神状態でまともに寝られるはずもなく、ほとんど寝ずに小学校に行った。どうも居眠りが多いので先生が昼休みに私を呼んだ。

「母親が昨日自殺未遂をした、今は入院している。昨日は不安で寝付けず、どうしても授業中眠く寝てしまっている。」

といった旨のことを伝えると、20代の若かった担任の男性は泣いた。私の状況を思ってくれたらしい。その気持ちが素直に嬉しい一方で、

(泣くことはないのにな、他人の家のことなんだし)

と、どこかで冷静な自分もいたのをやけに覚えている。

 

私の人格形成には母親の存在が欠かせなかった。そんなこと、誰にとっても当たり前のことではあるのだが、私の場合は、

「対応をしくじると母親が狂乱して手首に包丁を当てたり薬を大量に飲む」

というわかりやすい悪分岐ルートがあったために、冒頭でも書いた、「親の顔色を窺う癖」、ひいては「人の顔色を窺う癖」がついた気がする。一応断っておくが全部実話です。

 

昨年の8月、父親が家を出ていった。父親は、私がまだ小さな頃から浮気をしたり、家に金を入れず出会い系サイトに金を溶かしたり、借金をしたり、、、と、なかなかに過激な人だった。母親のヒステリックの原因を作ったのはほとんどが父親だったが、一方で母親はそんな父親のことをいつまでも好いていた。借金を作ったことより、家に充分な生活費を入れないことより、いつでも

「自分のほかに女を作った」

ことに対して、息子である私が恐怖を覚えるほどに過激に怒っていた。夏に父親が家を出ていく際にも、

「相手の女の連絡先を教えろ」

と最後まで譲らなかったことを、その後の父親との電話で聞いた。

 

優しいが、たまにヒステリックになり、メンヘラで、自分の旦那のことがいつまでも男性として大好きな母親。

優しい(あくまで息子には)が、甲斐性がなく、浮気をし、借金を作る父親。

 

狭い賃貸住宅の中で、ずっと、生活は奇妙なバランスの中で成り立っていた。20年間の圧迫は、最終的には裁判所の調停により終わりを迎える訳だったが、しかし当然の終わりだったとも言えるし、微睡むような幸せな思い出があったこともまた事実であった。

 

昨年の4月から私は横浜で一人暮らしを始めた。偏愛的で寂しがりな母親は、やはり最後まで私が家から居なくなることを嫌がった。その時はまだ家に居た父親がそれを宥め、私も年に二度は帰省すると約束して飛行機に乗った。空港の保安検査場から振り返った私が遠くに見た父と母の姿は、妻の不安を夫が優しそうに宥めるという、夫婦の理想的なものだったように覚えている。父親が出ていったのがそれからわずか4ヶ月後だと考えると、その記憶もいよいよ怪しくなってしまうのだが。

 

元々浮気癖があった父親は、母親の偏愛さやメンヘラなところを嫌っていた。普段は奇妙なバランスで成り立っていたように見えた生活は、守るべき息子がいたから仕方なく成り立っていただけだった。緩衝材として在った私が居なくなると、結婚生活は脆く急激に終わりを迎えることになる。父親が帰ってこない日が続いたことに腹を立てた母親は、やはり泣いて錯乱して手首に包丁を当てた。その場は父親が謝って済んだが、それにもいよいよ疲れた父親は次の週に離婚届を食卓の上に置いたらしい。

そこから調停があって、財産分与やら、親権のことやら、色々ないざこざがあったらしいが私はよくわかっていない。

 

そんなわけで、今回成人式のために行った帰省は、息子と同じように一人暮らしをすることになってしまった母親にとって、相当に待望のものだったらしい。寂しがりな母親にとっては、家に自分以外の誰かがいる、しかもそれが息子だから、それは嬉しいに決まっていた。帰省する3日前からは、電話がひっきりなしにかかってきていた。

 

今日の朝、約三週間の、比較的長い冬の帰省が終わる朝に、母親は泣いた。

「私、この家に独りで居たら気が狂いそうになるの」

と言う母親の顔は、母親というより、一人の人間として、ひどく悲痛なものに感じられた。可哀想、とか、申し訳ない、という気持ちもあったが、何も言えなかった。何ら解決策を提示することも出来ず、その場は、母親が私の部屋から立ち去ることで終わった。

 

帰省の初日、久しぶりに狭い居間に入った私の目に入ったのは、布団の上に広げっぱなしになっている5.6冊の写真アルバムだった。ふと目についた1冊には、保育園の入園式の看板の前で家族3人で撮った微笑ましい写真があった。それを見た瞬間に私は、

 

「母親は、残りの人生の大半を、この家の中で、幸せだったかつての思い出を漁りながら終えていくんだ。」

 

と直感した。

 

結婚前でまだ若い父親と母親が、カラオケで友人に撮ってもらったツーショット。観覧車に乗りたがらない私を父親が抱き抱えて乗せようとしている写真。杉乃井ホテルで家族3人で寝転がって、私がインカメで撮った写真。

 

今ではもう戻り得ない幸せの中に居る、写真の中の過去の自分を、母親はどのように見ているのだろう。自分を捨てて出ていった夫と、遠く横浜で一人暮らしをしている息子と、3人で過ごした時間を想いながら母親はあの家の中で少しずつ死んでいくんだと思うと、この文章を書いている今も涙が出る。なんで涙が出るのかはわからない。きっと幸せではない母親の現状を慮ってなのか、一人暮らしをしたかったがためにわざわざ遠くの大学を選んだことを申し訳なく思ってなのか、わからない。

 

帰省は終わった。この文章を書いているたった今、飛行機は羽田空港に着陸した。こんな寂しくなるならいっそ、帰省なんかしなければよかった。理由は違えど、私も母親も泣いた。次の帰省は夏、今度はもっと長く、母親と時間を過ごしたい。